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西方イスラーム史 「ベルベル人の世界マグリブ」

 北アフリカ西部、現在のモーリタニア、モロッコ、アルジェリア、チュニジア、、リビアを含む地方は、イスラーム世界ではアラビア語でそのまま「西方」を意味するマグリブと呼ばれています。
 アラブ・イスラーム到来以前から、この地方にはベルベル人と呼ばれる原住民が広く分布して居住しており、征服者として侵入してきたローマ人にも同化せず、アラブ人にしぶとく抵抗を示し続けた事で知られています。
 ベルベル人は、新石器時代以前に西アジアからマグリブ移住してきたと言われ、その起源はリビア人あるいはセム系の人々とする説があります。
 彼らは広くマグリブに分布して、小王国をいくつか成立させていましたが、やがてローマの支配するところとなります。ローマ帝国衰退後、ヴァンダル人、ビザンツ帝国の支配を経て、アラブの侵入を受けたのです。
 ベルベルは、ギリシャ語でバルバロイ、ラテン語のバルバイを語源とするとされます。
 言語(ギリシャ語、ラテン語)を解さない人々つまり「野蛮人」の意味です。
 ベルベル人は、国家が所有する土地や、占領軍の兵士が国家から与えられ経営する中規模の自作農地で、小作人として労役に従事していたとされます。
 新たな征服者であるアラブ人達も、同様の手法でベルべル人を支配しようとしました。
 アラブの侵入は、643年、エジプト総督アムル・ブン・アルアースによって始められました。アムル配下のエジプト軍は、リビアのバルカ地方(キレナイカ)に侵入し、ペンタポリス、トリポリなど主要都市を降伏に追いこみました。この時代、北アフリカはビザンツ帝国の支配下にあって、交易によって栄え、非常に治安が良く、平穏な地方であったと伝えられています。そのため武辺とは縁薄い彼らは、アラブの侵略に特に抵抗せず、彼らからの貢納要求に応じたのです。最も援軍の望みが少ない状況では、降伏以外の選択肢はなかったわけですが。また、この時アラブ軍は、定期的な貢納のみで満足し、直接支配に踏み切る事はしませんでした。また沿岸部のみならず、内陸へも軍勢を送りこみ、ラワータ族に貢納を約束させるなど、アムルは威嚇的な軍事行動(と言うより単なる行軍のみ)で北アフリカにアラブ支配の発端を築いたのです。
 より西方、マグリブへの本格的な征服活動は、アムルの甥のウクバ・ブン・ナフィーウによって推進されました。彼は、イスラムの伝道者として、半ば聖人として扱われている人物で、北アフリカ支配の拠点となるチュニジアの軍営都市カイラワーンの建設者としても知られています。しかしウクバは、聖戦の指導者としては精力的であったものの、熱狂的な宗教者にありがちな偏狭な視野の持ち主であり、宗教的寛容を持ち合わせていませんでした。そのため統治に配慮を欠き、大規模な反乱を招く事になります。

 ウクバは一時、中央の政変もあって解任された時期を除き、その生涯を北アフリカでの伝導や征服に捧げ、邁進しました。ヤズィード1世によって総督に復帰した後は、狂信的なまでに活発な征服活動を行い続けました。
 ただ、この活動は被支配層から見れば独善的な行動であり、反発が次第に広がっていきます。即ち、かつて支配的地位にあった人々の権利を、はなはだ侵害するものだったのです。ウクバの活動に不満を持つ一人として、ベルベル人の有力者で、イスラムに改宗していたアウラバ族の長クサイラと言う人物がいました。王朝にとって、マグリブ原住民統治における重要な人物であった訳ですが、ウクバはその面従腹背を疑い、些細な事件をきっかけに投獄してしまいます。ところがクサイラは支持者によって脱獄に成功し、部下を率いてビザンツ軍やバラーニス族などと同盟します。そして遂に683年、ビスクラ南方の地タフーダの戦いで、ウクバを襲撃、殺害してしまいました。クサイラは、以後マグリブの実質的な支配者となり、その軍勢はカイラワーンからアラブ軍を撤退に追い込むほどに成長しました。しかしシリアから援軍を得たアラブ側は、688年にカイラワーン近郊の会戦でクサイラを敗死させ、この反乱は収束に向かいました。しかしベルベル族の反アラブ姿勢は変わらず、政局は不安定なままでした。
ハリーファ=アブド・アルマリクの治世中、ユダヤ教徒と思われるジャラーワ族の女王カーヒナが起こした反乱は、もっとも有名かつ大規模なものでした。ビザンツ帝国と連合した、このベルベル人指導者はマグリブ総督ハッサーン・ブン・アンヌマーンを敗退させ、アラブ勢力を北アフリカから撤退させる勢いでしたが、698年に中央のシリア軍が到着して以後、守勢に回り、アウラース山脈に籠って抵抗を続けました。そして701年、カービス近郊の戦闘でカーヒナが戦死し、ベルベル人は多数が奴隷としてアラブ帝国に組み込まれました。
 以後ベルベル族は多くがイスラームを受け入れ、軍人として帝国に仕えるようになります。
 反乱は一時的に収束に向かい、北アフリカはしばらくの平穏を得ました。
 ハッサーンはベルベル人を組織して、軍を強化し、また軍営都市チュニスを造営してイフリキアの支配体制を強化しました。チュニスは軍港として栄え、創設されたイフリキア海軍は、主にシチリア、イタリア、スペイン方面の征服戦争に大いに寄与しました。
 ところで、なぜ彼らベルベル人は、ユダヤ教徒となったのか?
 伝説では紀元前586年、イェルサレムを征服した新バビロニア王国のネブカドネザルのバビロン虜囚の際、モロッコに逃れてきたユダヤ教徒の人々が居たと言います。彼らは現代のモロッコのバラシュティーン(パレスティナ人の意味)の祖先とされていますが、実証されているわけではありません。
 とは言えユダヤ教徒を自称した人々が、モロッコには居たことは間違いありません。
 ベルベル人は、イスラム化以前はユダヤ教徒であったと、歴史家イブン・ハルドゥーンも伝えています。
 その後もカルタゴ人などフェニキア系の人々が北アフリカやスペインに植民した際、ユダヤ教徒も多数移住してきました。こうした初期に移住してきたユダヤ教徒はアトラス山脈など山岳地帯に入り、原住民と融合して、ユダヤ教を広めていったと思われます。こうした人々がベルベル人と総括して呼ばれる人々であったわけです。かつての北アフリカの諸王国の人々とアラブの人々にベルベル人と呼ばれた人々との間にどの程度連続性があったのか、まったく疑問と言わざるを得ません。またカルタゴ人やローマ人の支配の影響、ビザンツ支配下での動向など、近代の植民地主義的な視点とあいまって、解釈や理解が一定しません。おおよそ収穫の3分の一は、各時代の諸勢力によって収奪され、しかも労役と軍役もあった訳で、過酷な統治の元、彼らが常に反政権的であったのもやむを得ないでしょう。ローマやイスラム帝国下の平和の幻影については、常に留意が必要でしょう。
 また、もう一つの波として4世紀以後西ゴート王国のユダヤ迫害の際にスペインから逃れてきたユダヤ教徒が北アフリカに逃亡してきたとも言います。都市部では、スペインから移住したユダヤ教徒が多いようです。ただ彼らはベルベル人とは距離を置いたようです。

 イスラームの歴史学者は、一般にイブン・ハルドゥーンの説に従い、ベルベル人をブラーニス系とブトゥル系に分けて考えます。基本的にユダヤ教徒であったのは後者であるとされます。ただしこの明確すぎる民族区分は、現代の歴史学者からは、大方懐疑的にみられているようです。ちなみに女王カーヒナは、ブトゥル系ジャワーラ族であったとされます。

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