頑固猫の小さな書斎

世界史とお茶を愛する猫の小さな部屋
 
 
 
 

 
インド・イスラーム史 「通史3:ガズナ朝登場前夜」

ガズナ朝登場前夜

 さて半島南部を除いたインド亜大陸では、アッバース朝成立時を同じくして、三国時代とでも言うべき状態がガズナ朝の成立まで約150年程続く事になります。
 三国とは、最初のラージプート王朝とされている北西インドを支配した前述のプラティハーラ王国。チャールキア王朝の王権を簒奪しデカンに大帝国を築いたラーシュトラクータ王国。ベンガルを中心に東方に強力な王権を築いたパーラ王国です。
 ムスリム進入時の混乱期とは、三国とも比べ物にならないくらい強力であり、お互いに合い争いつつ発展し、在地のムスリム勢力も彼らの影響下に入らざるを得ない状況になっていきました。
 しかし、これら三強国も、地域社会の主に農業開発による経済的な発展にともなって、10世紀頃になると次第に力をつけた地方諸勢力により分割され、弱体化していきます。
 三国時代においては、かつてのハルシャの帝国の首都カナウジの制圧が重要な政治目標でした。日本における京都、後のインドにおけるデリーの様な政治都市がカナウジだったのです。勿論、人口集中地であり、経済的にも重要ではありましたが、シンボルとしての意味合いも強かったと言われています。
 しかし次第に北インド経済は大都市集中型から離れ、政治的にも経済的にも地方分権化の傾向を見せていきます。小政権の軍事拠点、要塞から発展した中小都市が地域の首都的地位を占めるようになり、広範囲を影響化に置く大都市はなかなか成立しませんでした。地方政権は主に農業生産向上に投資をして、商業的な分野、都市経済の発展は重視されませんでした(全く省みられなかった訳ではありませんが)。強大な武力を持つ飛び抜けた存在は次第に存在しなくなり、インドは小国が分立したまま、勢力均衡状態が常態となっていきます。

 インドでのムスリム達は、経済的な発展は進んでも、政治的には停滞していた状況に、しばし甘んじていなければならなかりませんでした。
 しかしながら、やがてアッバース朝が弱体化し、地方政権が分離していく過程において、現アフガニスタンの地に新たな勢力が誕生すると、急速に事態は動いていくことになります。


 アフガニスタンのインド側、イランのシースターンの東方に位置するザーブリスターン地方と、ヒンドゥークシュ山脈の南麓カーピシー地方は、古来から中国とインド、そしてペルシア方面への陸上交通の要地であると同時に、地勢的に難所として知られていました。

 ザーブリスターンの主邑カンダハールからボラン峠を抜けるルートは、海路を除けば他地域からシンド地方へ到達する唯一のルートですし、カーピシー地方の主邑の一つカーブルを抜かなければ、北方の諸民族はバイバル峠を通ってガンダーラ地方へ進出することは出来ません。

 アフガニスタンの地理的条件を決定付けているのは、その中央部に座するアフガン山塊です。その険しい地形によって、交通ルートは制限され、古来多くの人々を悩ませてきたのです。
 交通可能な道はアフガン山塊を避けるように、山塊に沿って環状に巡っており、このルートを抑えた者は、インド、西アジア、中央アジアの接点を支配することになります。
 そのため、実力如何によって政治的、軍事的、経済的なイニシアティブを握る事が可能になる訳です。クシャーン朝のカニシュカ王やカズナ朝のスルタン・マフムードなどは、その好例でしょう。
 
 こうした英傑の元で、偶然を含む難しい条件が整った場合、クシャーン朝やエフタル、ムガル朝など強力な勢力「帝国」が忽然と現れることになります。
 インド方面に中央アジアやイランへと駒を進める場合、この地を攻略して基地と出来るかどうかが成否を分けたと言って良いでしょう。

 さてエフタルが6世紀にチュルク系の大帝国突厥に滅ぼされて以後、9世紀後半まで、中央アジアはチュルク系の遊牧諸国家が支配していました。アフガニスタンも例外ではなく遊牧系支配者が、権力を握っていたようです。

 まず前述の、この時代の主な交易、交通ルートをもう少し詳しく述べるとしましょう。
 中央アジアからインドのガンダーラ方面に移動する場合に、ブハーラから乾燥地帯の交易路を使ってバルフに南下し、アフガン山塊北辺居に沿って東のクンドゥズに移動、そこからヒンドゥークシュ山脈とアフガン山塊の間の山岳地帯を越えて南下し、バーミヤーンに至り、山道を通ってカーピシー地方のカーブルに到達すると言うものでした。このカーブルから南西に向かえばザーブリスターンの諸都市カズニー、カンダハールへ、東方に向いバイバル峠を越えればガンダーラ地方の主邑ペシャワールに辿りつくことが出来ます。
 またイラン方面からであればシースターン地方のブストからカンダハールに入り、ガンダーラ地方に向かうならカーブルまで北上し、シンド地方へ行くのなら南東のボラン峠を越えて行くルートを進むことになります。

 さてエフタル支配が瓦解し無政府状態に陥ったザーブリスターンとカーピシー地方でも、やがて小王国が生まれ安定支配をするようになり、地の利によって周辺諸国の侵入を防いでいました。彼らがなぜ突厥の支配下に入らなかったのか謎ですが、権力の空白をうまく利用して自立を保ち続けたようです。
 カーピシー地方はエフタルの撤退後、ヒンドゥー系の王朝がしばらく支配していました。このカーピシー王国はカーブル川沿いに勢力圏を広げ、ガンダーラ地方にまで支配の手を伸ばしていたようです。しかし傭兵として受け入れていたテュルク系(アフガン系?)遊牧民によって、7世紀半ば頃に政権を奪取され、遊牧系のカーブルのテュルクシャーヒー朝が成立して200年近く安定した支配を続けました。カーブルシャーはさらにザーブリスターンにも軍勢を派遣して、この地を影響下に置きました。やがて、良くあることですがザーブリスターンの支配を任された王族が自立して独自の王朝を確立します。この王国の王はリトベールと代々名乗っていたようです。これは固有名詞ではなく称号であろうと推測されています。彼らは、イスラームによる侵略を阻止し、交易の中継点としての地理的好条件の元、商業利益を得ていたと思われます。この二つの王国の外交関係は、はっきりしておらず友好的であったのか敵対的であったかすら判然としません。

 やがてイスラーム世界において地方勢力が強大化する中で、アフガニスタンの地も安定の時代を終えることになります。

 ホラサーンから中央アジアのアッバース朝の東方地域が帝国の支配から離脱し始めるのは、ハリーファ・マームーンの時代からでした。まず有力な将軍であったターヒルがホラサーン総督となり、実質独立したターヒル朝が誕生します。
 それが先鞭となり、ササーン朝時代から地方豪族として一定の勢力持っていたサーマーン家が独立(サーマーン朝)、またシースターンの市民層の支持を受けたサッファール朝やトルコ系遊牧国家カラハン朝などが次々と東方世界の覇権を巡り、合い争い興亡を繰り返す新たな時代へと移り変わっていったのです。

 東方イスラームの諸勢力の中で、アフガニスタンにその軍勢を差し向け、最初に一定の成果を得たのは、サッファール朝でした。
 サッファール朝の開祖ヤークーブ・ブン・アル・ライスは、銅細工師(サッファール)であったと言われ、同業者組合や都市の無頼階層(いわゆるアイヤール)、そしてハワーリジュ派の支援(ヤークーブ自身もハワーリジュ派であったと思われます)を受けて権力を掌握し、彼らや都市民の利益を保護することで安定した政権を作り上げました。
 そして過去に何度もシースターンからムスリム軍侵入を防ぎ続けたリトベールの王国を、サッファール朝軍は、870年代(正確には不明、ヤークーブの在位中であることは間違いないでしょう)の遠征で撃破しました。リトベールの王国は消息を以後絶ち、終止符が打たれたと推測されています。サッファール軍はカーブルも攻略しましたが、同じ頃にはカーブルシャーヒー朝も、ヒンドゥー系の有力者によって王位を奪われ、王朝が瓦解していました(王朝崩壊は、サッファール軍の侵入以前か以後かはっきりしません)。
 トルコ系遊牧民の支配は一旦ここで中断することになったのです。
 とは言えサッファール朝の軍隊にも、トルコ系奴隷軍団が存在して、王朝の有力な勢力となっていたし、9世紀以降、近代に至るまでトルコ系軍人は世界各国で採用され、政治的にも多いに権力を振るいました。
 つまりトルコ人の勢力は、ユーラシア大陸全体では後戻りできない程、浸透し拡大を続けていくことになり、中央アジアやインド方面でも同様であり、この高隊は一時的なものでしかありませんでした。
 ただし、ここで言うトルコ人は、現代トルコ人に連なる人々や特定の集団を指す言葉ではありません。つまり、あくまで便宜上の歴史用語であることも忘れてはいけないでしょう。当時のイスラーム世界ではトルコ人とは中央アジア出身者と同意義でもあったのです。

 サッファールの朝のザーブリスターン支配は、その王朝が時を経ずして弱体化したこともあり、短期間で終焉しました。そして地元有力者による自治政権とでも言うべき状態に移行したのです。カーブルもヒンドゥーシャーヒー朝の支配下に再び収まり、ムスリムの政治勢力は撃退されました。しかし当時最先端の軍事技術を持っていたトルコ系の人々が政治の表舞台から姿を消したアフガニスタンの地は、防衛体制が全体的に弱体化し、ヒンドゥーシャーの政治的な実力は表面上はともかく、実質は後退したと推測されます。

Copyright 1999-2009 by Gankoneko, All rights reserved.
inserted by FC2 system