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インド・イスラーム史 「通史2:イスラームのインド侵攻」

イスラームのインド侵攻

 インド亜大陸にイスラーム勢力が、初めて軍事侵攻をしたのは、ウマイヤ朝ハリーファ=アブド・アルマリクの時代。ちょうど帝国においてウマイヤ家の政権における内部の対立が解消し、また諸アラブ部族やシーア派の内乱を、ようやく鎮圧した時期でした。
 インド侵攻の発端は、海賊の被害にあったイスラーム商船の情報が、ウマイヤ朝中央に伝わったことであったと伝えられています。その物語りは次のように伝えられています。
  
 アブド・アルマリク統治時代に、ウマイヤ朝の東方を統括していた総督は、有名なハッジャージュでした。
 その彼の元に、スリランカで客死したムスリム商人の娘達をスリランカの王が船で送り出した事を伝える使者がやってきました。ハッジャージュは快諾しましたが、娘達を乗せた船は、途中インダス川河口のダイブル港の沖合いで海賊に襲われ、拉致されてしまったのです。
 その情報を知ったハッジャージュはダイブルを支配するシンド王ダーハルに使者を送りましたが、海賊に対する統制力はこの王になく、対応を暗に断られました。
 ハッジャージュはムスリム商人の安全がインドでは保証されていないことを理解し、遠征軍を派遣して当地を掌握する決意をしました。

 これが事実かどうかは判然としませんが、新ハリーファ指導の元、ムスリムの商人達の保護を名目として、商業利益の国家への還流を目的とした遠征が計画され、実行されたことは事実でした。
 また当時のウマイヤ朝は内乱直後でもあり、未だ多数存在した内なる不満分子を外征によってガス抜きし、内政を安定させると言う、古今良く使われた政治手法を背景としたものでもありました(他にも中央アジアやアフガニスタン東部、西方ではイベリア半島にも遠征軍が送り込まれました)。
 そもそもササーン朝に代わって、交易ルートの維持、管理を担う事になったウマイヤ朝は、その利益の循環を、ある程度王朝がコントロールできる集団によって管理させる必要がありました。この時期イスラームの尖兵たるアラブ商人の活動は大幅に広がっていましたが、その独占的な勢力圏はインド洋交易圏の西半分に限られ、その東半分、特に重要なインド西岸方面では十分地盤を得ていませんでした。アラブ商人達は、東方でも、すでにスリランカなどインド亜大陸東岸や、東南アジアの港湾都市などにも小規模なコロニーを築いていたようですが、未だ発展途上の段階でした。ウマイヤ朝は、直接介入することで、この地域に権威を確立し、交易ルートをアラブ商人たちに掌握させ、その利益を吸い上げようもくろんだ訳です。
 
 さて、この時期のアラブ商人の東方への交易ルートとしては、紅海の港から出発してアラビア半島南端を経由、インド西岸へと直接渡航するルートと、ササーン朝以来の交易路であるペルシャルート、つまり西方から陸路や河川運河網を使ってイラク南部のバスラなど、チグリス・ユーフラテス河口域まで移動してから海路に転じて、ペルシア湾岸の港湾都市をいくつか経由しつつインドに至るルートがありました。ちなみにウマイヤ朝期からアッバース朝中期にかけてはペルシャ湾ルートが主な交易路でしたが、イラク経済が瓦解する10世紀以後は紅海ルートが主流となりました。
 また陸路のみとなるとイラクからザクロス山脈を越えて、レイ、ニーシャープールなどイラン北部の都市を経由し、メルヴかヘラートを経由してバルフに至り、そこからヒンドゥークシュ山脈を越えてガンダーラ地方に移動するか、より南方のルートとしては、ザクロス山脈を南方から迂回し、イラン高原南部の諸都市、シーラーズやケルマーンなどを経由してアフガニスタンの南方シースターン地方に移動、さらに一旦北上してカンダハールに至り、そこから南進してインダス河流域に到達する交易路がありました。
 
 8世紀、アブドゥル・マリクの時代のイスラームの軍事進出は、ペルシア湾岸域の通商路を辿った形で行われました。目的は商業上、重要なインダス河下流域の港湾都市と中上流の河川沿いの諸都市、古来からシンドと呼ばれる地方の制圧でした。ハリーファの忠実な部下で、辣腕振りが知られる将軍ハッジャージュが、シンド方面司令官として選んだのは自身と同じサーキム族出身のムハンマド・ブン・カーシムでした。シーラーズでシリア地方から選抜された(イブン・アルシュアスの反乱を鎮圧するために送り込まれた遠征軍の一部であったとされます)アラブやマワーリーからなる6000余りの兵士を受け取ったムハンマドは、陸路でペルシア湾岸のマクラーン地方に移動しました。ここで兵士をさらに募集して、部隊を増強すると、インダス河口域の大貿易都市だったダイブル(現カラチ近郊のバンホール遺跡)に侵攻し、これを711年占領しました。さらにインダス河沿いに北上してすると、シンド地方の王チャチュの子ダーハルをラーワルの戦いで敗死させ、シンドの中心都市アロールやブラフマナーバードを相次いで攻略、さらに北上して中流域の主要都市ムルターンを占領しました(713年)。若き将軍ムハンマドは、さらにニールーンなど河川沿いの他の諸都市も降伏させ、シンド地方を短期間に席巻したのです。この成功は、有名なマクレーンの説によれば、この時期シンド都市経済が、様々な要因で停滞していた事があったとされています。マクレーンは基礎史料であるチュチュ・ナーマの記述から、困窮したシンドの都市商人層をパトロンとする仏教徒が、アラブ商人との関係強化によって経済的な活況を再現できるのではないかと考え、イスラーム軍の侵略に協力的あったと推測しています。しかしアラブ商人はシンドでの経済的な利益を独占し、仏教徒の商人達はやがて衰退、シンドを去るか、イスラームに改宗していったと結論しています。逆に都市郊外や農村に経済的な基盤に持つヒンドゥー教徒は、イスラーム軍に抵抗したにもかかわらず、主に徴税上の観点から強制的な改宗などの圧迫を受けるはありませんでした。こうして在来の統治システムを残したままヒンドゥー教徒はイスラーム政権に組み込まれたため、衰退することなくシンド地方で逆に発展を遂げることになります。

 ウマイヤ朝のシンド征服は、成功の果実を手に入れる形を整えることは出来ませんでした。後の政治的混乱により、シンド地方をウマイヤ王朝が直接に管理統治する体制とはならず、占領した諸都市における新たな支配層としてムスリム商人の優位を、ある程度確立したに過ぎなかったといえるでしょう。しかしながら、全く拠点を持たず活動する事に比べれば、法的な保護によるムスリム商人の安全性や、その活動の幅は大きく改善されたと言ってよいでしょう。経済的な視点では、地域社会にある程度の地盤を作ることで、将来におけるムスリム商人の発展の基となったことは間違いありません。それは政治的な面での飛躍を準備する先駆けとなったのです。

 シンド地方の支配者となった将軍ムハンマドの栄華は短いものでした。中央政界において彼を抜擢したハッジャージュと、その支持者であったウマイヤ朝ハリーファ=ワリードが相次いで死去すると、反動人事によって厚遇されていたハッジャージュ縁の人々は次々と地位を追われ、あるいは粛清されたからです。ムハンマドも、その運命を免れることは出来ず、ハロールでハリーファの命令によって捕らえられ、ダマスカスに送還され獄中死したと言われています。
 しかし、ムスリムがインド洋交易における拠点をいくつか確保したことは、イスラーム全体にとって大きな利益に繋がりました。前述のように、すでに一部の商人はインド東岸地帯にまで、足跡を残していましたが、航路の安全や活動の自由度がさらに改善されたことで、以後本格的に商圏を広げていくことになりました。中央アジア〜インド北部に至る内陸部が遊牧諸族や地元勢力によって自由な移動が制限されていたのに対して、海路は比較的強力な勢力がなくイスラーム側によって掌握されており、人と物、金の流れは、促進されました。インド経済にとってもイスラム商人の活動は、プラスに働いたようです。グプタ朝崩壊以後、フーナ族により都市経済が壊滅し、その後のエフタルの支配下でも再建は進みませんでした。エフタル勢力が滅びた後、一時インド北部を統一したハルシャ・ヴァルダナ王の帝国も短期間で瓦解し、経済的な発展は商業分野では再興は進みませんでした。政治的に分裂し不安定である事が常態となっていった中で、地方は自立を余儀なくされ、農業の振興を柱とした経済政策が取られる傾向にあったと言われています。停滞気味であったインド北部都市経済は、商人の権益と保護が法的に整備されたイスラームを奉じる勢力の侵入によって、再び活性化し、ゆっくりとですが好況へと転じるようになります。

 シンド地方のイスラーム諸政権は、ムハンマドの死後も、経済活動以外にも軍事活動も活発に行って周辺諸国に脅威を与えていました。しかしイスラーム勢力は738年に、デカンへの侵入を試みた際、ナウサーリの戦いで前期西チャールキア王朝ヴィクラマディーティヤ2世(位733/4年〜744/5年)の軍勢に決定的に破れ、その軍事活動は以後停滞していきます。また、この戦い以後、グルジャラ族の地方政権であったプラティハーラ王朝がシンドに勢力を拡大し、以後ムスリムは、この強力な王朝の矢面に立つことになります。こうしたヒンドゥー王朝の再編によって、ムスリム政権は圧迫され苦しい立場に立たされました。加えて、その支配下にあったインダス側流域は内部抗争の結果、統一された政権が存在しなくなり、ムルターンのサーム家の政権など、大きく4つの小政権が分立する状態となりました。

 さらに革命以後、政権の座にに就いたアッバース朝イスラーム帝国は、インドとの関係を政治的支配の面においては、さほど重視せず、その関係は疎遠となり、彼らを支援する事はありませんでした。しかし、経済的な交流においては盛況となり、インド洋沿岸諸国の経済発展に多いに寄与しました。

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