頑固猫の小さな書斎

世界史とお茶を愛する猫の小さな部屋

 
 
 
 

 
   
サーサーン朝の衰亡その7
 
サーサーン朝末期の混乱4

 シャフルバラーズ死後、フスラウ2世の甥に当たるフスラウが政権を握ろうとクテシフォンを目指したが途中で殺害されたと言う。
 サーサーン皇帝家の男性皇位継承者が見当たらなくなった事もあり、その後に政権を奪ったのはフスラウ2世の娘ボーラーンドゥフトであった。摂政ではなく皇帝としてコインに肖像を刻印させ、正式に即位したサーサーン朝初の女帝であった。
 ボーラーンはシャフラバラースと結婚し、その後ろ盾を強制されたとも言われる。シャフルバラーズが暗殺されるとコインに肖像を打刻して権威を知らしめたサーサーン朝最初の女帝であり、ビザンツ帝国と突厥帝国との両面和平策を実行し、極力軍事的なオプションを選択せず、その政策は穏健かつ穏当であった。灌漑設備や運河に架かる橋などの補修、その他インフラの再整備を実施し、また農民の離散を抑えるべく、当面の減税と宮廷費や軍事費の削減に手を付けた。政治手腕はなかなかのものであったようである。しかし帝国貴族達は独断で政治を実施する女帝に賛同出来ず、彼女は身の危険を感じて退位を選択したと考えられる。
 その後、ジュスナス・ディーなる人物が皇帝を名乗ったが、彼はシャフルバラーズの息子のシャープフルであろう。シャフルバラーズを支持していた軍隊に擁立されたと思われる。しかし彼の在位期間は1ヶ月に満たなかったと思われる。

アーザルメードゥフト

 次に帝位に昇ったのはフスラウ2世の娘の一人アーザルメードゥフトである。絶世の美女であったと伝えられている。
 おそらくは僭称皇帝ヴァフラーム6世(ヴァフラーム・チョービーン)の孫であるミフラーン家のシャーウクシュが彼女を操っていたのであろう。ミフラーン家は長年、突厥との戦い続けてきた家系であり、反突厥勢力の急先鋒であったのかもしれない。
 彼女はミフラーン家の政敵で、おそらくボーラーンドゥフトの後ろ盾の一人であったホラサーンのスハーフパッド(総督職)のファッロフ・オフルマズド(ファールーク・ホルミズド)を排除する事を決意し、結婚すると称して彼を誘き出し捕縛し殺害した。ファッロフ・オフルマズドはフスラウ2世によって抜擢されたアラブ系出身の新興貴族とも、スーレーン家あるいはミフラーン出身とも言われる権力者であり、皇帝家との婚姻をフスラウ2世時代から求めていたと言われる。またアーザルメードゥフトは元々ファッロフ・オフルマズドの婚約者であったが、彼女は使用人とも言えるアラブ出身の成り上がり者で無粋な田舎者の彼を嫌い、結婚を拒んでいたと言う。フーゼスターンで発行さたフスラウ(5世)銘の貨幣を発行したのはファッロフ・オフルマズドであろうと言われている。

 しかしファッロフ・オフルマズドの息子ロータスタフム(ロスタム)とその兄弟のファッロフザードは、父が殺害された事を知って復讐を誓った。ロータスタフムは、西突厥と和睦し援兵を得るとホラサーンから軍勢を率いて来襲し、シャーウクシュら女帝の支持者たちを殺害した。
 アーザルメードゥフトも目を潰されて幽閉され、後の毒殺されたと言われる。

フスラウ3世

 ロータスタフムによる奪権の結果、ボーラーンも中央政府において復権したと考えられる。しかし彼女は復位を選択せずに、皇帝家の血筋の人間を立てることとした。ホラサーンに地盤を持ち、アルダフシール1世の血統でミフル・ユススナスの子とされるフスラウ3世である。ボーラーンの復権時にはアフワーズに居たが、帝都に連れてこられて、諸貴族達に推戴され即位した。ところが行動や見識が皇帝として不的確とされて、数日で暗殺されてしまったと言う。あるいは最初から殺害するつもりで、誘き寄せたのかもしれない。フスラウ3世は、シャフルバラーズの在位中におそらくケルマーンで貨幣を発行しており、当時のサーサーン朝が分裂状態にあった事を示しているのだろう。

クララザット・フスラウ

 フスラウ2世の子であるが庶子か認知されなかった皇子と考えられる。ニシビスに逃れていたが、ニシビスの勢力に推されたのか、ボーラーンに呼び出されたか、どちらにせよ彼は帝都に向かい、皇帝に即位しようとした。クララザット・フスラウである。しかし彼も何らかの理由で貴族を説得できず、帝都に到着して数日後には暴動が起き、その際に殺害された。

ペーローズ2世

 次にボーラーンはペーローズと言う青年を皇帝位に就けようとした。彼はフスラウ1世の母系の曾孫であったと言う。彼は王位に就く気などなかったが、無理矢理に皇帝の地位に就かされた。戴冠式で帝冠はきついと呟き、それが貴族達の気に障ったらしい。彼もまた数日で殺害された。

ファッロフザード・フスラウ

 フスラウ2世時代、宮廷にはザーディーと呼ばれる人物がいた。皇帝家の侍従長であったと思われる。彼はフスラウ2世の子で同じくフスラウと言う名の子供をニシビスに逃していた。無論カヴァードによる皇族逆殺から守るためである。
 この人物がファッロフザード・フスラウである。ペーローズ2世死後に呼び戻されて帝位についた。
 彼は何とか半年間地位を保ったが、貴族勢力を廃し実権を握ろうとして失敗したようである。ヤザドギルド3世を擁立する事としたロータスタフムによって殺害された。

オフルマズド6世

 ニシビスで蜂起した出自不明の人物。帝都に直ぐに登ろうとせず、この地で即位して中央政界を伺っていたのであろう。シャフルバラーズ配下の兵士たちに支持されていたと考えられるため、彼の親族であると思われる。ヤザドギルド3世が即位してもしばらくは勢力を維持していたと考えられる。


 タバリーなどによると、このように多数の皇帝が短期間で即位と殺害を繰り返し、サーサーン朝帝国は分裂したとされる。フスラウと名乗った皇帝は3世、4世、5世と確認出来るが、実際何人いるか不明である。コインから推測されるのは、フスラウと名乗り即位した人物の中には3年近く勢力を保ったかもしれない人物もいるようだ。


ヤザドギルド3世

 フスロウ2世と寵妃シーリーンの子シャフリヤールの子。母の宗教を受け入れたキリスト教徒と言う事で、シャフリヤールは傍流扱いとなり、カヴァード3世の虐殺から免れていたようである。
 彼はサーサーン朝の故地であるペルシス地方のスフタルに居たが、おそらくポーラーンの黙認を受けて同地で632年6月16日に即位した。
 サーサーン家の権威は失墜し、帝都やイラク周辺の勢力は反目を繰り返して、誰を王位につけても派閥争いを激化させるだけであった。ボーラーンとサカ族騎兵を率いるスーレーン家ロータスタフムはニシビスの軍閥やビザンツ帝国と結びついている帝都の有力者たちから離れてヤザドギルドを即位させ、同時に教育を施して新皇帝が分別を持って政治判断ができるよう現在の情勢を理解させた。
 15歳の新皇帝は皇帝を利用しようとする様々の勢力の甘言に靡かないよう、自己の基盤がサカ族とスーレーン家の後ろ盾があってこその存在である事を理解したであろう。またロータスタフムらスーレーン家の後ろ盾ではあるが、同時にサーサーン朝を属国とみなす西突厥が内紛と唐帝国の介入でサーサーン朝の内政に関与する余裕を失っていたため、ロータスタフムが行動の自由を得たとも推測できる。つまり国境の防衛部隊から兵力を引き抜き、帝都に自身に忠実な大部隊を駐留できるようになったと言う事も推測できる。
 こうしてヤザドギルド3世(とボーラーンとロータスタフム)は十分な準備と工作の上、クテスィフォンの情勢を見計らって進撃し、サカ族騎兵支援の下で帝都を制圧した。反対派は即座に駆逐されて、彼を排除しようとする勢力は首都周辺から追放された。
 ヤザドギルド3世は、皇位継承者がもはや誰もいなくなったイラクで長期政権を運営する準備を整えた。サーサーン朝の内乱は一応の終わりを告げ(ニシビスのオフルマズド6世が未だに自立していたが)、帝国再建の道筋は付いたかのように思えたのだが、残念ながら彼はサーサーン朝最後の皇帝となる運命であった。
 以後の滅亡の物語は、イスラーム正統ハリーファを扱う小文の中に記載する予定である。

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