頑固猫の小さな書斎

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サーサーン朝の衰亡その6
 
サーサーン朝末期の混乱3

 以前から皇子シールーヤは自分が冷遇されており、父フスラウ2世の寵妃シーリーン(この時期にはすでに死亡していたと思われる)の子とも言われる弟マルダーン・シャーフが、既に実質的な帝位後継者と看做される風潮を苦々しく考えていた。そこに帝国の危機と皇帝への軍隊と王侯貴族の不満が渦巻くようになった情勢を見て、奪権を決意したのだろう。
 ただ宮廷革命を指導したのはカヴァードではなく、有力貴族達であったと思われる。
 帝都にビザンツ軍が迫る中、皇帝に反旗を翻した貴族達は囚人を解放して兵士に仕立てた部隊を率いてフスラウ2世を捕縛、幽閉したと考えられる。近衛兵達も新皇帝に従い孤立したフスラウ2世は、ビザンツ軍が迫る中で捕縛から4日後に殺害された。
 彼らに擁立されてカヴァードは即位したのである。
 628年2月25日の事である。

 即位したカヴァード2世は、多くの兄弟達を殺して地位を固めると、おそらく突厥帝国の統葉護可汗(トンヤブグカガン)の軍事的援助をあてにして、ビザンツとの仲裁を依頼すると言う基本方針を採ったようである。
 積極的な外交を展開したと言えなくもないが、結果としては皇帝の権威は失墜したであろう。
 帝国混乱の幕開けである。

 結局ビザンツ帝国軍は、帝都クテスィフォンを包囲し続ける事が難しくなり、これを陥落させることができなかった。
 だが即位後の不安定な情勢の中でカヴァードは敢えて不利な条件を飲んで和議を結び、戦闘停止を優先させることを決意した。

 ここに長かったビザンツ・ペルシア戦争は終結したのである。

 ヘラクレイオスはサーサーン朝の元にあった自国の捕虜を解放させ、シリアやエジプトからの敵軍の撤退を確約させた事を受け、コンスタンティノープルへ帰還していった。
 満身創痍の勝利であったと思われる。
 皇帝は以後体調を崩すが、無理もない事であった。

 一方和平を実現したカヴァード2世には帝国再建のための難題が山積みであった。また粛正に走った結果、皇族の中で孤立したと考えられる。
 皇弟フスラウら逃げ延びた皇族は、ほとぼりが冷めるまで、各地に姿を隠す事になった。

 カヴァードがそのまま在位し続け、内政に従事し続けることが出来ても、帝国の再建を果たせたかは非常に厳しかったと思われる。
 しかもカヴァードは、この年大流行し帝国領民に大打撃を与えていたペスト(あるいは天然痘)に罹患してしまう。
 死を悟った彼は、ダストギルドの離宮で幼い皇子について宰相ミフル・アードゥル・グシュナプスとビザンツ皇帝ヘラクレイオスに後見を依頼して死亡したとも言われる。
 ただ後ろ盾であった突厥の統葉護可汗が、伯父(諸父)の莫賀咄によって暗殺されると言う大事件があった事がある疑惑を生じさせている。新可汗莫賀咄侯屈利俟毘可汗による政変とカヴァードが死亡した時期とが一致しているため、突厥の勢力浸透を危惧する勢力に暗殺されたとする説も提出されているのである。これは新唐書西域伝の以下の文言をどう解釈するかによるのであろう。

 「隋末、西突厥葉護可汗討殘其国、殺王庫薩和、其子施利立、葉護使部帥監統。施利死、遂不肯臣。立庫薩和女為王、突厥又殺之。施利之子單羯方奔拂菻、国人迎立之、是為伊怛支。死、兄子伊嗣俟立」
 
 勿論あくまで推測であって、証拠がある訳ではない。

 さてカヴァード2世の子であり、7歳で即位したのがアルダフシール3世(在位628年-630年)である。ヘラクレイオス帝とその同盟者であるシャフルバラーズ将軍の支持の元に即位したと思われる幼君は、シャフルバラーズの帝位簒奪の野望のための踏石でしかなかったと思われる。しかし帝国貴族はビザンツ帝国との戦争中に裏切り、敗北の原因を作ったシャフルバラーズを苦々しく思っていたようで、彼を積極的に支持する勢力はニシビスに駐留する配下の軍団ぐらいであった。

 シャフルバラースの出自はフスラウ2世の兄弟とするのが妥当であろうか。本名はファッロカーンなのかもしれない。シャフルバラースは帝国の雄猪(勝利の神を暗示する)を意味する渾名である。ビザンツ戦争後、エジプトから帰還した彼は、ビザンツとの国境ニシビスに駐留し、カヴァードの政権に対峙していたと思われる。しかし630年4月にチョパン・タルカーン率いるハザール族の侵入に対処する必要に迫られ、1万余りの騎兵を派遣した。しかし軍勢は敗北し、責任と権威を問われる事態となった。そのため彼はヘラクリウス帝と連絡を取り、密約を交わして、その同意の下で幼君と宰相を毒殺し、急遽皇帝として即位したのである。同年4月27日の事とされる。
 しかし数か月余り後に彼の政権は終わりを告げる。アルメニアを略奪するだけでは飽き足らなかったハザール軍を収拾させる事が出来ず、シャルバラーズが突然死亡したのである。6月9日の事とされる(イスラーム史料における、この辺りの日付が正しいかは判断しかねるが)。ハザールとの戦争中に戦傷死したか、処刑されたのであろう。
 ハザール汗を始めとする遊牧民の活動が活発化した背景には西突厥の政治的動揺があったと思われる。莫賀咄侯屈利俟毘可汗は630年に、サマルカンドに亡命していた統葉護可汗の子である肆葉護可汗に殺害されており、サーサーン朝内部の親突厥勢力の内訌も関与していたとも推測される。肆葉護可汗の政権も安定せず、以後頻繁に可汗位は後退し、西突厥の求心力は次第に失われていった。サーサーン朝も突厥側の政変のたびに政治地図が入れ替わり、軍人や貴族、神官階級の権力争いが激化して行ったと思われる。


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