頑固猫の小さな書斎

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サーサーン朝の衰亡その5
 
サーサーン朝末期の混乱2

 エジプトは防備が手薄でビザンツでは異端であった単性派キリスト教徒やユダヤ教徒の支援もあり、戦争はビザンツ不利で進んだ。反帝都の空気が濃厚なこの地方では、サーサーン朝軍は民衆のゲリラ的抵抗にあわず、正規軍にのみ対処すればよかった。
 サーサーン朝による征服は順調に進み、首府アレクサンドリアはさすがに1年以上の攻囲に耐えたものの、618年についに陥落した。この時点でヘラクレイオス帝はカルタゴ遷都を真剣に検討する有様であった。

 外交上の根回しを行い成果を確認した622年になって、ようやくビザンツ帝国は本格的な反撃に出る事が出来た。皇帝は教会財産を処分して新たな軍隊を整え、厳しい訓練を行って軍事組織の改革・再編成を行った。
 そして戦力の見込みのたったヘラクレイオス帝は、再び皇帝親征を決意したのである。
 まずタウロス山脈に沿ってメディア方面に侵攻し、サーサーン朝の聖地アードゥル・グシュナスを急襲し、神殿を破壊させるなど攻勢に出た。
 反撃と同時に和平工作に乗り出したヘラクレイオスに対して、しかしながらフスラウ2世は戦争継続の意思を示した。
 アヴァール族などスラブ系民族との連携による帝都コンスタンティノープル攻撃を計画したのである。
 小アジア方面のヘラクレイオス帝にはシャヒーン将軍が派遣され、皇帝直属部隊を拘束し、帝都の対岸に当たるカルケドンを包囲した。
 帝都の直接攻撃にはエジプトのシャフルバラーズが、スラブ諸族と合同でその任に当たった。ビザンツ帝都コンスタンティノープルを陥落させるには対岸に渡り包囲する必要があるが、ビザンツの地中海艦隊は健在で手も足も出ず、シャフルバラーズはバルカンのアヴァール族の援軍を要請してバルカン側から帝都の包囲戦を行わせた。
 しかしビザンツ側もハザール族やブルガール族の援軍を要請しアヴァール族の本拠地を攻撃させ、結局アヴァール族を撤退に追い込む事に成功した。この撤退の混乱でアヴァール族は大幅に勢力を減退させビザンツの脅威としての勢力を失った。
 さらに反撃に出たビザンツ軍によってシャフルバラーズ将軍の野営地も急襲されて壊乱した。シャフルバラーズ将軍は豪奢な黄金の鎧兜を脱ぎ棄て、小アジア側に遁走したと言う。
 またシャヒーン将軍に対峙した皇弟テオドロスは、626年にシャヒーン将軍に大勝利を収めて、ペルシア帝国の小アジア方面軍を瓦解させた。シャヒーンはこの敗北で戦死したか、フスロウ2世の不興を買い解任されたと考えられる。
 この様にビザンツ側の反撃や侵攻作戦の混乱が起こり、また余りに戦線が拡大したため作戦の継続はサーサーン朝の特に人的資源に甚大な損害を与えた。国家基盤たる農業生産力を次第に疲弊させて行ったのである。
 シャフルバラーズはコンスタンティノープル包囲軍が瓦解した後に、小アジア方面に移動してカルケドンを維持したが戦力が十分ではなく、またビザンツ海軍が蠢動していたためシリアやエジプト駐留部隊も帰路の安全を確保できず安易に動く事が出来なかった。 
 さらにはカルケドンに残兵を集めて再起を謀っていたシャフルバラーズの元に、フスラウ2世が彼を解任し、クテスィフォンに召喚する…つまり処刑するつもりであると言う情報が届けられた。この情報はビザンツ側が流した離間策であった可能性も高いが、シャフルバラーズは勝利の見込めなくなった戦闘の停止を決めた。ヘラクレイオス皇帝と独断で講和を結ぶ事としたのである。実質的に反乱であり、主君フスラウ2世を見捨てた行為でもあった。

 627年にヘラクレイオス帝は小アジア奪回すると、戦争に決着をつけるべく直接にクテスィフォンを目指した。サーサーン朝は広大な領土に比して人口が希薄であり、長大な戦線を維持するために首都クテスィフォン周辺には大兵力を存在させていなかった。
 627年9月中頃、ビザンツ帝国軍と首都防衛のために進撃してきたラーザード将軍のサーサーン朝軍との間で戦闘が開始された。
 サーサーン朝軍は7万とも言われているが、戦闘経験を持つ部隊は半数以下であったであろう。実際の総数は2万以下とする説もある様である。ヘラクレイオス帝が直卒するビザンツ帝国軍が数的に優位であったと思われる。
 ニネヴェで行われた決戦は、ヘラクレイオス帝自身も負傷する激戦であったとされる。一説には皇帝とラーザード将軍は一騎打ちを行い、後者が戦死したとも言う。こうした説が生まれたのは、ビザンツ軍がサーサーン朝弓騎兵の射撃による損害を防ぐため、深い霧を利用して敵の斥候を欺き、中央部隊をやや後退させて中央の騎兵を誘い込み、白兵戦に持ち込む事に成功した戦闘経緯のためであろう。
 血みどろの白兵戦は数の優位によって勝敗が決定される。サーサーン朝の部隊は半包囲される形で次第に数を減らし、援軍が到着する頃には勝敗は明らかとなっていた。
 サーサーン朝は騎士階級からなる騎兵戦力のほぼ全てを失い、全戦力のおよそ半数の死傷者を出した。単に敗走したのではなく、おそらく野戦において包囲され、殺伐されたのではないかと考えられる。敗戦で多くの現場指揮官クラスの将兵を失ったとすれば、後のサーサーン朝の軍事力、野戦における指揮系統の柔軟性の欠如の理由は、ここにあったのかもしれない。
 ビザンツ側も多大な被害を受けたと予想されるが軍事組織は維持され、そのままフスロウ2世が駐留していたダストギルド宮殿に進撃した。敗報を受けたフスロウ2世は慌ててクテスィフォンに逃走していたため、ダストギルドはほぼ無血で占領された。膨大な財宝がヘラクレイオスの手に渡ったとされる。
 ヘラクレイオスは翌年までこの地で冬営した後、翌628年首都クテスィフォンに向けて進撃した。
 当時帝都クテスィフォンでは疫病が発生し始めていて、皇帝フスラウ2世も発病する有様であった。このままでは帝都陥落は時間の問題であった。
 しかしビザンツ軍の首都攻撃は、インフラを失って瓦解し始めていた運河網のために困難を極めた。また補給の点や侵攻ルートを考えると最初から本格的な攻城戦を考慮していなかったと思われる。
 またビザンツ帝国も戦争で疲弊していた。
 冒険的過ぎる帝都直接侵攻も短期決戦以外に勝機がなかっためであると思われる。ヘラクレイオス帝の帝都侵攻は、交渉に持ち込むためのパフォーマンスであったが、予想外の大勝利を収める結果となった。
 あるいは出陣の以前に、同盟者となったシャフルバラーズや西突厥との人脈を用いて、老いて頑迷なサーサーン朝皇帝を宮廷革命によって排除する計画が準備できていたのかもしれない。
 ヘラクレイオスの策謀があったかどうかはともかく、クテスィフォン内部で不穏な空気が流れていたのは間違いない。フスラウ2世が敗戦した将軍や兵士に厳しい態度に臨んだため、親衛隊すら皇帝に距離を置くようになっていったと言われているからだ。

 やがて事態は急転する。 
 フスラウ2世の長子カヴァード(シールーヤ)によるクーデターが発生したのである。


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