頑固猫の小さな書斎

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サーサーン朝の衰亡その3
 
  しかしティグリス・ユーフラテス川に挟まれた地域は開発過多により次第に塩化が進み、湿地化も進行していった。特にメソポタミアの河口付近、最南部分はパルティア帝国時代に既に放棄されていたと言われている。パルティア後期までに、細々と存続していたバビロンも最早廃墟となり、首都クテスィフォンとセレウケイアに住民は移り住んでいった。
 移民による人口減少の結果、イラク南部は5世紀末には、すでに政治的には中枢から離れていた。しかし少なくともフスラウ2世の治世が開始された時期には、北に近い地域では豊かな農耕地帯として延々と農地が広がり、高い生産性を未だ維持していた。
 湿地化と塩害には、黒人奴隷を重労働に使役して地力の維持に勤め、生産性を何とか保っていた。当時はジブリヤット、ジズルがイラク南部の中心都市であったようである。
 米などの新種の作物の増産など、小麦の収穫減を補填する技術開発の取り組みもなイスラーム以前より実施されていたと考えられる。
 特に米は次第に耕作面積を増やしていき、南部イラクで農地が失われ湿地帯が広がってしまったアッバース朝時代には、大河下流域の湿地帯の主穀として生産され、バグダード下層民の生活を支える事になる。

 しかしながらフスロウ1世没年の頃のサーサーン朝は、膨大な生産量を未だ維持しており、大規模な軍事活動を可能たらしめる余力を持っていた。後に湿地化した地帯もサーサーン朝時代は豊かな穀倉地帯であった。
 確立された効率的な政治システムを背景にフスラウ2世の治世は、帝国が最も豊かな時代であったと看做されている。
 フスラウ2世時代中期、官僚組織によって維持されたイラクは膨大な穀物を生産し、イラクのサワードの税収だけで2億から3億ディルハムあったと言われており、タバリーによれば、ビザンツとの戦争直前の帝国の総収入は6億ディルハムに達したと言うから、帝国財政の3割以上の富をイラクで生み出していた事になる。この数字をそのまま信じるならばアッバース朝時代のイラン・イラクにおける総税収に匹敵する。

 後のアッバース朝ですら再現できなかったイラクの潅漑農業は、管理が滞れば失われる諸刃の剣でもあった。
 イラン高原は決して人口豊かな地域ではなく、大半は居住が困難な砂漠であったため、イランのおおよその人口は300万から500万以下でしかなく、メソポタミア平原を含めた他の地域も1000万以上の人口があったとは考えられない。
 アッバース朝最盛期にはメソポタミアの人口は1000万人を超えたと推測されているが、これはエジプトや北アフリカ、シチリアなどから穀物が供給されるようになった結果であると考えられる。サーサーン朝時代には、サワードで生産される穀物で賄いきれない人口を維持できるとは考え難い。
 そのためサーサーン朝帝国全体の人口は、おおよそ1000万から1500万以下と推測されている。
 最盛期のビザンツ帝国とは、明らかに国力に差があったと言えるだろう。
 また様々な努力にもかかわらず、集中的な生産が継続した事による塩害と、新たな商品作物として注目された綿生産の増加による地力低下は抑えきれなかった。
 ホスロウ2世時代までに、次第に穀物生産が困難な地域を増やしていく結果となり、塩化・湿地化した地域の管理は次第に杜撰になり、潅漑設備の点検・改修や土壌改良の努力も戦争の継続で見送られがちとなった。
 湿地化が進んで人々が土地を離れ始めたのは、サーサーン朝末の政治混乱以前、6世紀末ごろからではないかと言われている。余りに中央集権化された結果、人口は首都や開発地帯に集中し、地方の生産性は低下したと推定されている。
 首都近郊の人口は過剰となり、穀物や家畜の準備は常に不足がちとなった(これはビザンツ帝国についても言える事であるが)。
 つまり政府の統制が緩めば、灌漑農業は生産性を維持できず、飢饉の危険性が常に潜んでいた事を意味する。塩化対策も不十分となれば耕地面積の激減を招く事になったであろう。

 加えてペストの流行が多発した事で、6世紀には帝国全体の人口は急激に減少したものと思われる。
 流民となった者は、さらに首都に集中し、過剰な人口密集地帯はペスト渦でも軽減されなかった。
 インドのマウリヤ朝も同様に中央集権化が行き過ぎた結果、瓦解したが、同じ事がサーサーン朝にも起きたと言えるだろう。
 さらに長期にわたる戦争に突入し、帝国はその動員力の限界まで人々を酷使し、しかも敗北を喫してしまった。
 また管理の滞った両大河下流域を大洪水が襲いかかった。
 フスラウ2世の治世末年にかけて発生した未曽有の災害の連続は、帝国の経済基盤を破壊し、サーサーン王家の権威を徹底的に失墜させた。イラク南部の栄光の時代は永遠に去ったのである。
 やがてメソポタミア西南は、イスラーム王朝時代に次第には農地としては完全に棄地となり、特にザンジュの乱以降の9世紀から13世紀かけて人口は激減し、政治の中枢となる事は現在に至るまでなかった。

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