頑固猫の小さな書斎

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サーサーン朝の衰亡その2
 
 フスラウ1世は長く続いた政治的・宗教的混乱を打破すべく、その治世中に先王カヴァード一世時代から計画されていた改革を断行した。その改革の完成の結果、内部の支配構造の大幅な変質が認められるようになった。 
 財務面においてビザンツ帝国の税制度を参考にしたといわれる改革は、表面上は有効に機能し、帝国の経済力を強化した財政は安定した。税制は出来高制から耕地面積から算定される定額制となり、官僚制度は大幅に(より精緻なものに)変更された。
 また宗教面でも統制と研究の深化が謀られ、ゾロアスター神官達と皇室の関係は深まり、宗教的中心がペルシス地方から首都クテスィフォン近くに移築された。

 つまりフスラウ1世の時代は、新王朝に近い構造改革がなされたと考えられている。官僚制度は近代以前のイランの歴史上、最も完備された。それは主にゾロアスター教団との連携の上で成り立ったもので、その最高の地位が最高神官兼皇帝を輩出するサーサーン家の長であった。

 かつてエーラーン・シャフルは、騎馬遊牧国家エフタルの属国と化し、イラン高原の大半を奪われていた。
 エーラーン・シャフルは、その反省に基づいて政治基盤をイラン高原ではなくメソポタミア平原とフーゼスターンに依存する体制を推し進めたと言える。かつての諸帝国以上の開発をさらに進める事を計画・実行したのである。考古学的にはサーサーン朝時代のイラクにおいては、集落の分布の観点からディヤーラ河流域(特に下流東岸部)と、ティグリス、ユーフラテス両河に挟まれた地域の2箇所が農業生産の中心地であったことが推測されている。
 帝国政府は以前より、湖や大河など灌漑可能な水源を持つイラクとイラン東南部のスィースターン、そしてフーゼスターンに投資を集中させてきた。これは、先王朝アルシャク朝パルティア帝国の政策を引き継いだものあった。

 アルシャク朝パルティア帝国ワラガシュ(ヴォロガゼス)1世時代に掘削されたと推定されているシャッタール・ニールと呼ばれている運河は、ジブリヤットなどの主要都市に農業用水と生活水を供給し、後期パルティア帝国の財政を支えたと推定されている。イラク北部は常にローマ帝国の脅威に曝されていたので、南部に生産拠点を創設する意図があったのだろう。
 パルティアが南イラクの開発に積極的であったのはローマとアラン族などの北の脅威に加えて、彼らに対抗できる収入を確保すべく、交易路の新規開発する意味合いもあったと思われる。
 皇族同士の半ば内乱状態が常であった後期パルティア帝国が、曲がりなりにも政権を維持できたのも、この南部の農耕地帯を維持できたことと、中国・インドに繋がるペルシャ湾・インド洋交易ルートを新たに開拓し、確保出来たためではないだろうか。
 これらの政策を推し進めた結果ワラガシュ1世時代から、帝国は何とか再び威信を維持する事が出来るようになったのであろう。
 
 結局パルティア滅亡は外敵ではなく、内部の新勢力によって滅ぼされた。即ちサーサーン朝である。サーサーン朝の革命は、全く新たな組織によって旧制度を破壊して成立したと言うよりも、パルティア帝国旧来の諸勢力の同意の元、政治指導力を失っていたアルシャク皇帝家に代わって政治指導者の座を委譲されたと考えて良いであろう。勿論その過程でアルシャク皇帝家の軍勢を打破する必要があったが。
 パルティア帝国の大貴族達がサーサーン家の支配をあっさり認めている事は、彼らにとってサーサーン家の支配は別段、征服されたと言う認識ではなかった事が推定される。
 パルティア貴族にとって、サーサーン家の支配は「サーサーン朝パルティア帝国」とでも言うべきものであった。

 サーサーン朝は、半ば独立していた小王国など属領を整理し、皇帝の直轄地を増大させる政策を採った。そして、その支配の拠点として新らたな都市を多数創建した。
 既存の都市は強制移住を含めて、その多くが帝国の圧力で規模が縮小されたとされる。
 またミフラーン家など大貴族からは、都市の支配権を慎重に排除し、封建諸侯の経済的統制をはかった。
 加えて、多数存在した様々な宗教設備、財産を接収し、その収入基盤を国家に統合した。宗教的な教義や儀式を可能な限り統一し、国家支配の道具に改変させた。その一環として偶像崇拝的な神像崇拝を禁止し、聖火崇拝の振興を計った。それはイデオロギーの統一という目的以外にも貴金属製の神像を破壊して、軍隊の維持費に活用するためでもあった。
 そして以後もサーサーン家は、帝国の中央集権化を模索し続けた。

 サーサーン朝期の農業開発は、王朝初期の内乱を鎮静化させた皇帝ナルセー時代に、特に南部で活性化したと言われている。
 そしてフスラウ1世時代は、内紛で荒廃した地域の再開発に加え、前述の如く開発余地の残っていたイラン西部に跨る地域を新たな投資先として重視し、資源が振り向けられた。
 フスラウ1世は、ティグリス河から引かれ、ディヤーラ川に至り、さらに南まで連絡する運河、カトル・アルキスラー・ナフラワーンを完成させた(フスラウ2世時代やアラブ初期との説もある)。またディヤーラ川からも多数の用水網が掘削され、耕地は大幅に拡大した。

 そして生まれた潅漑農業地帯を神官、官僚と貴族たちによって管理下に置いた。
 フスラウ以後の帝国は人口調査や大規模動員体制を可能たらしめる組織と法制の整備を行い、以前よりさらに緻密な政治を実施するようになった。
 逆に天水農業を基盤とするイラン高原では、カナートなどによる灌漑可能な農地以外は、大まかな行政組織を整備し統制しつつも、アルシャク朝以来の貴族達やディフカーンと呼ばれる在地新貴族に支配と徴税を委ねた。

 フスラウ1世によりティグリス河東岸に新たに掘削された運河網は、皇帝とその幕僚の苦心の成果であった。
 その結果、イラク平原は有史以来、最も高い生産性を誇るまでに開発された。

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