頑固猫の小さな書斎

世界史とお茶を愛する猫の小さな部屋

 
 
 
 
 

   
サーサーン朝の衰亡その1
 
 西暦570年頃のとある夜、メソポタミアを本拠とするサーサーン朝ペルシア帝国(エーラーン・シャフル)の都クテスィフォンを大地震が襲い、1000年間途切れる事がなかった帝都の大聖火が突如として消え、神官達は奇妙な幻視に悩まされ恐慌に陥ったと。
 その幻視とはラクダに跨った蛮族達が、エーラーン・シャフルの豊な平原を蹂躙破壊すると言うものでした。
 その夜こそ、イスラームの創始者である預言者ムハンマドが生誕した時であったとアラブの伝説は伝えます。
 
 このアラブ支配時代の伝承は、勿論後代の創作であろう。彼らの宗教的権威を増すための神話である。
 イスラームの開祖である預言者ムハンマドが宣教を開始した時代は、まさにビザンツ帝国とサーサーン朝ペルシア帝国との間で始まった、当時の世界大戦とも言うべきペルシア・ビザンツ戦争(602〜628年)の真っ最中であった。
 この30年近い長期の大戦争によって、両大国は破産状態に陥り、回復する間もなくアラブ軍によって蹂躙されてしまう事になる。
 アラブの大征服も、両国の衰退が背景になければ、ここまで成功しなかったであろう。
 
 サーサーン朝ペルシア帝国こと「エーラーン・シャフル(アーリヤ人の帝国)」は、長くイラン・イラクを支配した老大国だった。
 サーサーン朝の王家は、神官階層と合同で、アーリヤ人と言う定義が困難な「民族」を新たに創造し、雑多な人々の住まう支配地域の支配層の一体感を演出した。
 支配イデオロギーとして古来のイラン高原各地の宗教的伝統を取捨選択して、ペルシス地方の宗教と融合、「ゾロアスター教」を生み出し支配領域に強制的に浸透させ、言語的にもゆっくりと同一化を浸透させた。
 こうした文化面での統制に加え、精緻な統治組織を成立・運用させ、生産力の拡大のために移民・開拓を積極的に行った。国家主導による非常に人造的な側面が特徴の国家形態であった。
 宗教を中心とした均質で高度な管理社会を、現実化しようとした王朝であったと言える。

 サーサーン朝はフスラウ(ホスロー)1世の時代に、東方の遊牧国家エフタルの脅威を突厥帝国の助けを借りて撃退したことを機に、黄金時代を迎えたとされる。
 同じ血統の王朝が建国300年を経て黄金期と呼ばれる時代を現出し、しかも領土を拡大するのは実に稀なケースであろう。
 その背景には、フスラウ1世の時代に大規模な再開発が行われた事が挙げられる。

 サーサーン朝の経済の基盤は、従来より計画的に開発・維持管理された潅漑農業にあった。
 特にイラクにおける農業生産は重要なものであった。
 古代ハカマーニシュ(アケメネス)朝ペルシア帝国の時代から、イラクでは大河間を結ぶ大きな運河が複数作られ、そこから無数の細い運河が南北に格子上に張り巡らされていた。
 この運河網は、耕作可能な土地に農業用水をもれなく供給し、大地を潤した。
 また運河は水力も供給し、製粉や導水の動力として用いられ、水運にも寄与して歴代の帝国の流通の中心を成していた。
 この精緻な水路網建設は、アルシャク朝パルティア帝国後期からさらに大規模となり、以後の統治者によって続けられてきたと推定されている。
 かつて歴史上メソポタミア南部の開発はウル第3王朝(前2113年頃〜前2006年)時代が最盛期であったと考えられていた。
 しかし、近年ではパルティア・サーサーン朝時代の一連の開発による5世紀から6世紀にかけてが、そのピークであったと見なされている。
 耕地面積と生産量、生産性、また人口において最も開発が進んだ時代であると考えられるようになったのである。
 
 しかしピークであったと言う事は、以後衰退の一途を辿ったと言う事でもある。
 フスラウ1世とその従臣団は、その事を理解し、新たな開発を進める事を余儀なくされていた。
 乾燥地帯における潅漑農業は、毛細管現象に伴う塩化による地力低下を避けられない。長期にわたって休耕し、塩土を取り除く作業を行っても、数年単位では完全に回復させることは難しいと言われている。イラクにおいても、地力低下は次第に現れてきたと考えられる。
 一方イラン高原においては、多くの地域が農業に適さない沙漠地帯であった。農業が可能な地域の大部分は、不安定であるが生産性の低下は少ない天水農業が行われていた。天水農業は面積当たりの播種量を制限するなど、地中の水分の拡散を最大限少なくする努力を必要とする物の長期間に亘って地力が維持される事が特徴である。
 イラン高原でも限られた地域では冬の降雪を利用する地下用水路による灌漑や河川を活用した灌漑農業によって人口の集中が可能となり都市が生まれる事もあった。しかしメルヴなど最大規模のものでもイラクの首都圏には到底及ばなかった。
 特に天水農業地帯は広大ではあるが人口はまばらであり、集落ごとの自治的な体制を単位として帝国行政に組み込まれていた。
 封建的な政治体制と言えるが、宗教的には帝国公式のゾロアスター教に近親感があり、この地域の小領主とその従者達は帝国主力軍の重要な供給源であった。彼らの忠誠心をどのように維持していくかが帝国安定の要点であるのだが、後の歴史はサーサーン朝がそれに失敗した事を教えてくれる。それがフスラウ1世の失政と言えなくもない。

Copyright 1999-2011 by Gankoneko, All rights reserved.
inserted by FC2 system