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マルワーン1世の治世
マルワーン1世の治世(623年3月28日-685年5月7日、在位684-685年)

 ムアーウィア2世死去の報が伝わると、ヒジャーズ地方の人々は、反乱以前からこの地方の指導的立場にあったイブン・アッズバイルを、遂にハリーファとして認め、またイラク、エジプト、そしてシリアの一部の人々も次々と忠誠を誓った。誰が見ても彼が時期ハリーファとなる様に思えた事であろう。
 しかしシリア地方は、新たな指導者としてメディアから逃亡していたウマイヤ家の分家出身の長老マルワーン・ブン・アルハカム・ブン・アブー・アルアース・ブン・ウマイヤ・ブン・アブド・シャムス・ブン・アブド・マナーフを選び、一部を除き依然ウマイヤ家を支持していた。スフヤーン家には後継者としてヤズィード1世の子ハーリド・ブン・ヤズィードがいたが、若年であり到底反乱者達を制圧する力量を持ち得ないと看做されたためであった。
 マルワーンは足元を固めるべく、シリアに自立したウマイヤ一族で同じアルアース家のアムル・ブン・サイード・アル・アシュダルとその弟ヤフヤーにマワーリー兵からなる部隊を送りこんで、これを破り(マルジュ・ラーヒトの戦い、684年3月)、シリアを再び完全に掌握した。ジュンド兵を信頼できなかったマルワーン軍には、多数の解放奴隷やマワーリーを武装させた者達がいた。後に記述するムフタール軍もイブン・アッズバイルも各ジュンドの兵を扱い難いものと考え、兵力増強のためアラブ以外に人的資源を求めざるを得なった。
 非主流派であったマディーナのマルヤーン家がハリーファの座を得たのは、頂点にいたスフヤーン家内部が混乱を極め一時的な後継者不在であった状態の中、シリアのジュンド兵も動揺と困惑が広がり、どの勢力を支持するか各駐屯地でも固まっていなかったためであった。
 シリヤではスフヤーン家、アルアース家が対立していたが、その決着を付けたのは正規の兵士ではなく、このような私兵とも言うべき奴隷兵士やマワーリー出身の部隊であったのである。

 同族の有力者を権力の座から退ける事で、シリア軍の内部対立は速やかに収束した。マルワーンは、さらにエジプトにも一軍を派遣して、これを占領した。この一連の素早い再征服によって、一時期衰えたウマイヤ朝の勢威はマルワーン家を指導者として頂く体制の元、大いに回復したのである。
 しかしやがて彼は病死してしまう。
 一説によると彼は病死したのではなく妻に殺害されたのだとも言う。彼女はヤズィードの妻の一人で、つまりスフヤーン家との関係を有利にするための政略結婚の相手であった。なぜなら彼女はハーリド・ブン・ヤズィードの母でもあったからである。マルワーンはハーリドを自分の息子とする事で、その政治生命を断とうとしたのであろう。マルワーンはハーリドに侮辱的な発言を行い(売女の息子などなど)、彼の評判を落とそうとしたと言う。
 ハーリドは恥辱に耐えきれず、母に訴えた。
 その結果マルワーンは彼女に寝室で殺害されたのだと言う。
 勿論、創作ではあろうがマルワーンとその後継者たちはスフヤーン家から政治的地位を徹底的に奪い、権力とは無縁の存在としたのは確かである。
 マルワーンの後継者となったのは息子でウマイヤ家きっての名君とされるアブド・アルマリクであった。
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