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ヤズィード1世の治世その1 「カルバラーの悲劇」 |
・ヤズィード・ブン・ムアーウィア・ブン・アブー・スフヤーン・サフル(645年〜683年、在位680年〜683年)
680年にムアーウィアが死去し、その息子ヤズィートがハリーファとして即位した。
ヤズィード1世は父の遺言に従ってクライシュ族の中でもハリーファの位を狙いうる有力家系の者達の監視を強める事とした。アリー家のフサイン、マッカのイブン・アッズバイル、アブド・アッラーフ・ブン・ウマルなどである。
特にアリーの息子で十二イマーム派の第3代イマーム=アルフサインはヤズィードの即位に内心不満であった。しかしヒジュラ暦60年ラジャブ月の終わりからシャアバーン月の初めにかけてマッカに居を構え動こうとせず、騒乱に関与するのには慎重であった。
だが政治的理想の思想にかぶれていたクーファのシーア派はフサインに使者を送り、クーファに来て彼らの指導者として人々のバイアを受けるよう幾度も要請してきた。
フサインはまだ不安であったので、従兄弟のムスリム・ブン・アキールをクーファに送りこみ調査させた。
このムスリムの報告から、フサインはクーファの反ウマイヤ感情は本物であると判断し、ようやく部下たちを従えてクーファに向かうこととしたのである。
しかしウマイヤ朝側はこの情報をつかみ、現在のバグダットの南方70キロほど、カルバラーの地に大軍を派遣してフサインを待ち構えていた。
フサインは、マッカ出発後、しばらくしてムスリム・ブン・アーキルが殺害された事を知ることになる。
だがフサインは、結局クーファ市民を信じて引き返すことをしなかったのである。
実際はクーファはこの頃すでに、ウマイヤ朝側に完全に制圧されており新総督ウバイド・アッラーフ・ブン・ズィヤードにフサインの行動は筒抜けであった。
総督ウバイドの派遣した将軍ウマル・ブン・サアド・ブン・アブー・ワッカースと、フサインの戦闘は西暦で680年10月10日、イスラーム暦で61年ムハッラム月の10日(所謂アーシュラーの日)に行われた。
フサインの部下達は200名ほど、しかもほとんどが、非戦闘員で女子供も含まれていた。
兵士たる男は72名しかなかったと伝えられている。
対してウマイヤ朝軍は4000人近い大軍であった。
戦闘、あるいは虐殺は短時間で終了し、フサインを始め、その従者は一部の女子供を除き全員戦死した。
戦闘に参加したハサンの年少の二人の子供と、フサインの子二人も戦死した。
フサインは首を取られ、遺骸は裸にして放置され、その首は捕虜となった女性や少年少女と共にクーファへと連行されたのである。
こうしてフサインの死後、生き残った者達は全てヤズィード1世の捕虜となった。
その中には、3人の男子がいた。
一人目は、当時22歳だったイマーム・フサインの息子、4代目イマーム・アリー・ブン・フサイン・ザイヌルアービディーン(659年〜713年)。
彼はこの時、病気であったため戦いには参加していなかったため、生き残ることが出来た。
2人目は、アリーの4歳の息子、5代目イマーム・ムハンマド・ブン・アリー・アルバーキル(676年〜733年)。
3人目は、2代目イマーム・ハサンの息子でフサインの婿ハサン・ムサンナー。彼は戦いで負傷し戦場に横たわっていたが敵兵に見付けられ、それが幸いして、手当受ける事が出来た。
捕虜はクーファへ、それからダマスカスのヤズィードのもとに連行された。
ヤズィード1世は虐殺の非難を多少とも和らげるために、これ以上の殺害を行わず、捕虜たちはやがて解放された。
フサインの首級はダマスカスに送られ、確かにフサインであることが確認されるとカルバラーに送り返され、その地に埋葬された。
これが有名なカルバラーの悲劇であり、シーア派の人々の原罪として深く記憶に刻まれることになった事件である。
フサインは、アリー家を支持する人々によって殉教者と見なされ、カルバラーの戦いは真理と虚偽、善と悪、正義と暴政の戦いの象徴となった。
彼はイエスのごとく人々の罪業を担って、凶刃に倒れたと解釈されたのである。
カルバラーはやがて聖地と化した。
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