頑固猫の小さな書斎

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アリーの治世その2

 エジプトのアラブの支持も確認したハリーファ=アリーは、ウマイヤ家の対立が鮮明となった事で軍事的な決着を付けるべく、657年7月ユーフラテス河右岸のラッカ近郊スィッフィーンの野で対峙した。
 
 戦闘開始後、緒戦は水源を巡る戦いで勝利したアリー側が有利に立ったとも言われる。
 しかし決着がつくには到らなかった。
 実際には戦闘自体はほとんど行われなかったのではないかと推測される。
 数的に優位に立ちながらもアリー軍の戦意は決して高くなかったからである。この状況を見て取ったムアーウィア側の将軍アムル・ブン・アルワースはクルアーンを槍先に掲げ、ウンマ内の争いはまず武力ではなく話し合いで仲裁者を通じて解決するとした、クルアーンの記述に基づいた考えを受け入れ、アリーに休戦するよう求めた。
 (注:これはクルアーン四十九章九節の「もし信徒が二派に分かれて争っていたなら、お前たちは彼らを仲裁してやれ。もし両者のうち一方が他方に罪を犯しているなら、彼らが神のご命令に戻るまで、お前たちもこれと戦うがよい」と言う記述に基づくと思われる)

 アリーは戦闘を継続すべきだと考えていたと推測できる。シリア勢を撃破して、その地を接収し再編成する事を考えていたと思われるからだ。

 しかしアリーは、おそらく敵の総帥ムアーウィアの事前工作の結果であろうアラブ兵の多くの兵士達が和平に傾いており、このまま戦い続ければ主にクーファの民が反乱に到るの可能性を看て取った。
 アリーの支持者は主に二つの派閥に分裂していた。
 イラクの豊なサワーフィーに利権を持つ「歴戦の民」とリッダ以後に参画した定額のアターで我慢しなければならない人々である。後者はウスマーン治世への最大の不満分子であり、その政治目的はクーファの政治的な実権と利権を歴戦の民から奪う事であった。
 ハリーファ=ウマルは、サワーフィーの私領化を断固阻止したいと考えていたであろう。ウスマーンはこの問題を曖昧なままにしていたが、いざ実際に財政上の問題が見え始め、リッダの民の不満が爆発した時、ようやく管理強化を図ろうとした。ところが、それは当然だが歴戦の民の利権を削りリッダの民へ当てると言う形を採らざるを得ず、両者からの不満が集中してしまったのであろう。
 アリーも内乱終結に伴い、この問題を解決しなければならないと考えていたに違いない。そう言った意味で、軍事基盤を欠くアリーにとってアラブ兵達の存在は必要不可欠であると同時にシリアの軍事的脅威よりも厄介なものであった。

 仮にムアーウィアを破り、シリアを併合出来た場合のアリーの今後の軍事面での戦略を妄想してみると…。

 ・イラク(特に不満大きかったクーファ)からシリアに出来るだけアラブ兵を移住させ、対ビザンツへの略奪戦に専念させる。ビザンツ帝国攻略が当面の目標となる。在地のシリア兵は北アフリカや中央アジアとシンド方面への遠征に送り込む形で移動させる。北アフリカの軍事的な侵攻を継続させ、将来的には海軍を増強して地中海の覇権を確立する。
 ・エジプトはアムルから実権を奪い、税収を確保させる。アムルの定めた税額は非常に低いものであったため将来的には他地域と同等とするが、急な増税は在地のコプト教徒による反乱が起こる可能性が高く当面は見送る。
 ・次に中央アジアの占領を成し遂げた後、在地の貴族層の私兵達は王族ごとハリーファの直属軍に編入しイラクに移動させる。現地の統治、収税、治安維持と防衛には軍営都市を築いてシリア兵を常駐させ、在地の下層豪族との連携による体制を築く。
 ・シンド方面は在地勢力が強大なため、当面は前線基地を築く程度にとどめる。
 ・中央アジアの再編が終了した段階でアフガン山塊に陣取るルトビール王国をホラサーンとシースターン、シンドの部隊が連携して多方面からの攻撃を開始する。長期的な攻略戦に専念させ、北インド方面への陸路での進出路を何れ確保させる。このルトビールの王国が滅んだならば、インドへの道が開かれ、アフガンの地に新たな軍営都市を築いて、豊かな北インドからの戦利品を継続的に得る事ができる。またルトビール王国の騎兵戦力はホラサーンのメルヴ軍に編入し、中央アジア方面からの遊牧民の侵入に対応させる。
 ・中央アジアからの部隊を編入し、直属の部隊を強化した段階で、サワーフィーを占有するアラブ兵を排除する。反乱が起きるであろうが、武力か話し合いで解決する。和議が結ばれた場合、イラクを離れた兵士達はシリア軍の増強に充てる。
 ・最終的な準備が整った後、海軍とシリア兵、北アフリカ兵、アリーの直属部隊や義勇兵全てを動員してビザンツ帝国のコンスタンティノープル遠征を行う。おそらくアリーが陣頭に立ち、戦場で死ぬ事を選択するであろう。後継者は古残のアラブがほぼ没していると考えられるので、再び内乱を経て決定され、以後は世襲的な王朝へと切り替わるであろう。

 くだらない…妄想をしてしまった。つまりウマイヤ朝の政策とほぼ同じ物となったと予想できる。アリーが独自の予想も出来ない政策を準備していたとは思えないからである。

 
 さて致し方なく休戦に応じ、宗教裁判とも言える会談(フクム)をまず実施する事で合意したアリーであったが、アリーの予想に反して(あるいはムアーウィアの予想通り)兵士たちの一部にアリーを見限る者が現れた。
 それはクーファ市民の内の主戦派の人々が中心であった。
 後のハワーリジュ派と呼ばれる人々である。
 実は彼らの反乱の表向きの理由も四十九章九節の記述を行動の基準としていた。
 つまり「ウスマ−ンの支配は不正であって、彼は罪を犯している。彼を支持したムアーウィアも当然罪人であり、彼がアリーに対して罪を犯しているのは明白であって、仲裁の必要はない。にもかかわらずアリーがムアーウィアと和平を結ぼうとするのは罪を犯す行為である。罪を犯した者(アりー)は不信仰者である」
 との主張である。
 彼らハワーリジュ派の呼び掛けに応じて、およそ4000名程がクーファへの帰還途中に軍隊から離脱し、ハールーラーに集まりアリーに再考を求めた。
 アリーは一旦は彼らの説得に成功して、部隊をクーファ軍に帰還させた。一旦退却したのであって、シリアとの和議ではないとの見解であったためである。しかしに第1回の会談のため元クーファ総督であった長老アブー・ムーサー・アルアシュアリーが派遣されたことを知るとハワーリジュ派は再び、彼の元を去っていった。
 「裁定は神のみによる(クルアーン十二章六十七節)」
 とした彼らの離反が、アリーの運命をほぼ決定したのである。

 さて658年2月のドゥーマ・アルタンジャルで行われた両陣営の第一回の会談は想像通り、もの別れに終わった。
 シリア側の調停の使者となったアルワースの策略により、参加した者の間で
 「ウスマーンは潔白であり、その殺害は不正である」
 との結論に達したためであるとされている。
 勿論、詳細は不明であるがアリー側は自身の主張をなんら反映できずに終わったようである。
 これを受けムアーウィアはシリアの民からハリーファと認められたが、当然アリーは憤慨して交渉は決裂した。
 アリーは当初は使者として自分の腹心の将軍アルアシュタル・ブン・マーリク・ブン・アルハーリスを送り込もうとしたが、クーファの人々は彼が自分達に不利な条件を提示すると考えこれを忌避した。結局イラク征服の経緯に詳しく、イラク諸軍の利益を代弁できるアブー・ムーサーが使者となった。同様にシリア側もシリア征服に参加したアムルが交渉の代表となったのである。
 ただアリーはアブー・ムーサーが長老格で人望もあるものの、交渉役としては状況に流されやすく不適格であると考えていたようである。
 そして実際にその通りとなり、アブー・ムーサーの権威は地に落ちる事となった。

 一方説得に全く応じなくなったハワーリジュ派に対して、アリーは激怒し武力でこれを鎮圧することを決意した。
 ただ、あるハディースによればアリーはすぐには行動に移らなかったと言う。
 「彼らが殺伐を開始し、交通を遮断し、安全を脅かすまでは」
 アリーは、ムスリム同士は「罪を犯すまで」は、あくまで話し合うべきだと言う考えを守ることにしたとされる。
 これが事実かどうかはともかく、話し合いと相互の譲歩による融和を基本とするアリーの政治姿勢を伺わせるものである。
 だがハワーリジュ派は極論に動き、周辺住民への実害も確認できるようになった。 
 アリーは658年7月アンナフラワーンの地でハワーリジュ派の主力部隊を急襲し、彼らの大部分を虐殺し壊滅させたのである。
 アリーがハワーリジュ派討滅を決意したのは、彼らの思想が危険なものであったと言うこと以上に、その利己主義的な弁解に激怒したためであったと思われる。ハワーリジュ派は後には思想的な理論武装を行い魅力的な言説を生み出す事になるが、アリーの陣営を離れた直接の原因はサワーフィーの利権をアリーが奪う事への不安でしかなかった。ハワーリジュ派の大部分はシャイバーン族などの歴戦の民であり、旧サーサーン朝王領地であるサワーフィーの膨大な農業生産物を着服し莫大な利益を得ていた少数の特権層であった。クルアーンの警句を理由に、自分達の利益を正統化しようとする彼らに対して、アリーが激怒したのは当然のことであった。
 生き残ったハワーリジュ派の者達500余名は、以降サワーフィーに戻って今まで通り武装したまま在地領主化して納税を拒否し、反政府活動を行うようになる。あるいは北アフリカに逃れ、執拗な反乱を行い続ける事になる。彼らの中には穏健な思想に転換し、地方政権を生む勢力も現れる事になるが、大部分のハワーリジュ派は自分達の利権を正統化するため実現不可能な理想を求めて、死を求めるがごとき活動を展開していくことになる。そのためサワーフィーの治安は大いに悪化する事となった。

 緊迫の度合いが増す中、659年1月に2回目の会談が現代のヨルダンのアズルフで行われた。
 その結果アムルとアブー・ムーサーはアリー、ムアーウィアのハリーファ即位を白紙に戻し、新たにシューラー催して候補者を擁立する事となった。次期後継者としてはアムルは自分の息子のアブド・アッラーフを、アブー・ムーサーはウマルの子アブド・アッラーフを推したが同意は得られなかった。
 
 会談後にアブー・ムーサーは人々の前でアリーとムアーウィアが退位した事で同意し、後継者決定は先送りされたと告げた。
 ところが直後にアムルが進みでて同意内容はアリーが退位を了承したと言う事のみであると公言し、ムアーウィアが正統なハリーファとして残る事となったと言い直した。そしてアブー・ムーサーが反論する前に人々を解散させてしまった。
 アブー・ムーサーは激怒して集会をやり直す事を求めたが、シリアの人々は彼を追い払い、面目を失った彼はクーファにも戻れずマッカに逃亡した。

 会談の結果を受けてシリア側はムアーウィアをハリーファとして再承認した。
 アリー側は結果内容には到底同意し得なかった。また新たな候補者を立てる事も出来ずに、アリーが実質ハリーファとしてイラク陣営の指導的立場に留まったままであった。
 つまり調停はまたも失敗に終わったのである。
 交渉は形式上アリーは退位した事となり、イラクに正統なハリーファが不在の状態を現出とさせる結果となった。実質的にはムアーウィア(と言うより老練なアムル)の勝利であったと言えよう。

 さてクーファ陣営は、このような内部分裂の結果アリーを支持する兵士が激減し、その軍事力は著しく低下した。と言うのもアリー軍の主力であったクーファのムカーティラの内、リッダの民がアリーのために戦う意思を失っていた。ハワーリジュ派に多くの古残兵たるクッラーが加担し、しかも急襲でその大部分壊滅した事が原因であったと思われる。リッダの民は自分達の利益を搾取していた敵対勢力がいなくなると、途端にアリーへの協力を拒むようになったのである。
 アリーは失った兵士を補充すべく各地に援軍の要請を行ったものの、その結果は余り芳しいものではなかった。
 最終的に八方塞がりとなったアリーは、おそらくは自分の私兵を使って混乱しているイラン方面を再平定し現地で兵士を募るつもりであったと思われる。
 しかしアリーに体制を整える時間はなかった。
 この後、661年1月クーファで礼拝に向かう途中、ハワーリジュ派の残党アブド・アッラフマーン・ブン・ムルジャムによって暗殺されるからである。
 シーア派の伝承ではイブン・ムルジャムの敵意を知りつつアリーは彼を許し、自分が暗殺されるだろう事を予感していたと言う。実際にアリーは敵対者を多く抱え込んでしまった自分の最期が、先代、戦線代のハリーファと同じく真っ当なものとはならないであろう事を悟っていたのではないかと思われる。
 戦況が悪化し、名目的なハリーファに成り下がってしまった後も穏当に振る舞い、礼拝を欠かさず、寛大さを美徳とし、宗教的な義務を常に優先させる姿にアリーの限界と可能性を垣間見る様な気がしてならない。
 ハリーファの暗殺に伴い、アリー家の政権は実質瓦解した。
 息子のアルハサン(625年〜670年)が、父の跡を継いでバイア(忠誠の誓い)を受けたが、彼は政治的な覇権を求める基盤を欠き、迫りくるムアーウィアのシリア軍に簡単に屈服した。弟フサインとともに多額の報酬、年金の支給や宗教的な幾つかの譲歩(イマームの称号など)と引き替えに、ムアーウィアに(イラクの)ハリーファの地位を実質的に譲ったのである。
 ハサンは、マディーナに隠遁し享楽に耽り、結婚離婚を繰り返して100人以上の妻を持ったとも言う。45歳で早く亡くなったのも、こうした生活ゆえと考えられる(伝承では、裏切ったクーファ市民に襲われて、負傷したのが原因とされている)。
 
 一方、生き残ったムアーウィアは、以後ハリーファとして誰憚ることなく行動し、ウマイヤ家が指導する新たな王朝(バヌー・ウマイヤ)の確立に邁進する事になったのである。

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