頑固猫の小さな書斎

世界史とお茶を愛する猫の小さな部屋

 
 
 
 
 
アリーの治世その1

アリー・ブン・アブー・ターリブ・アブド・アルムッタリブ・ブン・ハーシムの治世(600/1年頃生〜661年1月27日没、在位656-661年)

 さて今までの三人のハリーファは、統治者として幾多の成果を上げた。
 しかしそうした実績を見たにもかかわらず、彼らの即位後も、その地位に関して根強く反対する人々がウンマ内部に存在し続けていた。
 それが預言者ムハンマドの従兄弟であるアリーを支持する人々(アリーの党派、シーア・アリー)である。

 このシーア派の伝承によればムハンマドが亡くなった際、アラブ社会における血縁者の当然の義務として、ムハンマドの氏族たるハーシム家の人々は預言者の遺体を洗浄して喪に服す等、葬儀の準備をしていた。
 その場にはアリーとその妻ファーティマ、ムハンマドの叔父アッバースなどがいたと言われている。
 ところが、この間にアブー・バクル、ウマル、アブー・ウバイダら長老達は共同体の後継者選出会議(シューラー)を勝手に進めてしまい、ハーシム家の主だったものが存在しない場所でアブー・バクルをハリーファとしてしまったのである。

 シーア派はハーシム家の参加していない後継者選定を不当な行為だと考えた人々である。その多くはアンサールなどムハージルーンに不満を持つ人々であったと言う。
 つまり宗派ではなく政治的な派閥であり、宗教化していくのは少数派としての形成が決定的となったウマイヤ朝期である。
 
 アリーはムハンマドの養子ザイドの次に改宗したとされる最初期のムスリムの一人であり、かつその後は戦場を含めて常に預言者の側に付き添い、日常生活を共にしていた。
 またアリーの父アブー・ターリブはムハンマドの叔父であり、孤児だったムハンマドの保護者でもあった。つまりアリーはムハンマドの従兄弟であった。
 叔父に恩義を感じていたムハンマドは経済的な自立を果たした後、決して裕福ではなかった彼の負担を減らすべく、その子の一人アリーの養育を引き受けたのである。
 さらにマディーナへのヒジュラの後に、ムハンマドは娘ファーティマをアリーに妻として与え、血縁関係を強化した。彼の子らは預言者の唯一の血脈となって後世に続くことになる。

 この様な理由から、最もムハンマドと近しかったアリーは他の教友とは一線を分つ存在であり、生前にイスラームについて他の者には伝えられなかった秘事を伝えられたのではと考える者が現れたほどである。
 実際に彼は預言者の生前からイスラームに関して法的、神学的に思索を繰り返し、ムハンマドに最も近い法解釈が行える人物と見なされていた。ウマルが伝えたとされる預言者のハディースには「アリーが最も法的知識をもっている」と言うものもある。
 またアリーは特に倫理に関してアリーは厳しい解釈をする傾向があり、それがムハンマドの妻アイーシャとの関係を悪化させる事となった。
 アリーはいわば新たな思想であるイスラームの「法と正義」を体現する者として自己規定していたのではないかと思われる。
 
 アリーに与する人々にしてみれば、アブー・バクルがハリーファに選出されたのは、彼が教団の最長老であったからに過ぎなかった。
 だがムハンマドが亡くなった時、アリーは32歳前後であり当時のアラブの常識としては指導者として確かに若すぎた。
 加えてアブー・バクルはムハンマドに男系の子孫が居ないことを理由に、その後継者が存在しないことを公に宣言し、アリー家の勢力を牽制している。
 具体的にはムハンマドの娘ファーティマが父の土地(つまりムハンマド在世中の征服地、特にマディーナの農地)の権利の相続を主張した際、上記と征服地は共同体の所有物であるとする理由でこれを拒否したのである。
 このアブー・バクルの姿勢は土地の権利を拒否すると同時に、暗に共同体における指導的な地位の独占的な継承をファーティマとムハンマドの親族であるアリー家から剥奪することも意味した。
 この事件によって教友達(ムハージルーン)の勢力と、マディーナのアンサールと彼らに同情的なアリー家やハーシム家の人々(アフル・アル=バイド)との対立が以後鮮明となり、後の内乱に繋がっていくことになる。
 最も、これは後世のアリー支持者側から見た見解であり、当のアリーがどう考えていたかは判然としない。

アリーのハリーファ即位

 ウスマーンが殺害された後、主だったムハージルーンとアンサールのアラブ有力者や兵士達が次第に冷静さを取り戻していった。
 そして有力アラブによるシューラーが開かれアリーが後継者に選出された。

 第3代ハリーファ=ウスマーン即位の際に、その擁立を決めた合議の場にはウンマの主立った6人の人々が参加していた。
 ウマイヤ家のウスマーン自身。
 ハーシム家のアリー。
 アサド家のアッズバイル・ブン・アルワウアーム。
 ズフラ家のサード・ブン・アブー・ワッカース(ペルシア戦役の英雄。アルカーディシヤの戦いでペルシア将軍ルスタムを破った。クーファの建設者としても有名)とアブド・アッラフマーン。
 タイム家のタルハ・ブン・ウバイド・アッラーフである。

 彼らは、ウスマーンの死後には彼に継ぐ地位にあると考えられた者達であった。
 それぞれがウンマ内の有力者たちであり、この中から次代の指導者が選ばれるのは自然でもあった。
 アリーの登位を決めたシューラーがどの様な経緯で決められたかは不明であるが、後にタルハとアッズバイルがムカーティラによって擁立され即位したアリーに対抗する道を選んだ事から紛糾したと思われる。
 いわばアリー家とウンマ成立以来の教友達との権力争いが先鋭化した会議であった。
さらにはこれに直接参加していないウマイヤ家が対抗する形となっていく。
 特に権力欲を見せていたアッズバイルとタルハをアリーは説得し、イスラームの分裂を避ける事が重要であるとの認識で一旦一致したようだ。
 アリーはアッズバイルらの就任宣言とそれに答えたマディーナの人々から忠誠の誓いを受け、第4代ハリーファとなったからである。

 アリーの就任演説は様々な形で伝えられているが、簡単に言えば啓典に従って善を行い悪を遠ざけ、神の定めたハラーム(禁忌)を守り、神のタウヒードとイフラースを理解し、それらの義務を言葉と思想と行動全てでもって遂行せよ、と言った類の趣旨であった。
 政治的な話題を避け、イスラームに忠実である事と公益の重視と秩序を訴えるものであったと思われる。

 さて初代アブー・バクルが亡くなった後も、ウマル、ウスマーンとハリーファには長老が就き、こうした混乱の中ようやくアリーがハリーファになったのは50代も半ばであった。
 表舞台から一歩退いていたアリーは、軍事活動にも身を投じた気配はなく、特にアラブ軍人には政治的に何ら勢力を扶植していなかった。彼の支持層は非主流派であるか、下級の兵士達であった。つまり政治家として何ら準備のないままに養父の創始した社会の守護者としてハリーファとなったのである。彼の理想はムハンマドの創始した現状のウンマの継続しつつ、社会の不平等を是正する事であったと思われる。
 しかし理想は実現せず、悲劇的な死を迎えることになる。
 ウスマーンが反乱兵に包囲された時、アリーはウスマーンの護衛として息子ハサンを送り込んだとされる。しかしながらアブー・バクルやウマルの時代にそうであったようにアリーは政治向きの事や軍事行動とは距離を置いていた。この事件の背景にアリーがどの程度関与していたかは不明である。
 暗殺事件の6日後、内紛そしてハリーファの殺害と言う大混乱の中で、帝都マディーナの状況を収束すべくアリーはムカーティラ達の忠誠(バイア)を受けハリーファとして即位した。アリーは兵士達を金銭を約束する事で懐柔し事態は何とか収拾されたが、致し方なくとは言え前ハリーファの殺害犯の一部に推されて即位したことはアリーの将来を暗いものとする事になった。
 兵士達は実に貪欲に報酬を求めた。
 アリーはクーファのアシュタルと同じく、公庫から資金を調達して銀貨の発行を行う事を余儀なくされた。またその規模をイラク全土に広げ、アターとして分配する事でムカーティラの忠誠をつなぎとめるしかなかった。またアリーは各地の総督達を、特に根回し、下準備もなく即座に自身のマーワリーなど信頼できる者に挿げ替えたため、彼らは業務を前任者から引き継ぐ事も出来ず、まともに政務を執る事が出来なかった。
 アリーが支配できる地域はイラクやイラン西部など極限られた範囲であったのが実情で、ホラサーンは無政府状態となり、エジプトは総督アムルの私領の如き有様であった。
 財務や法秩序をないがしろにする場当たり的な対応は、経験の不足するアリーの政治家としての未熟さを表すものであった。そしてこのような行為を取らねばならないアリーの政権は、当初から脆弱かつ混乱したものにならざるを得なかったのである。
 無論、秩序が回復された時に何らかの方策が採られたかもしれないが、アリーの将来における政治構想がどの様なものであったか、或いはその様な物は存在しなかったのか、今となっては知る由もない。

 アリーの説得にもかかわらず、有力者たちはその政権の不安定さから、アリーとの距離を置き始めた。また即位後のアリーはアブー・バクルやウマル時代の政策への回帰、即ち「歴戦の民」への優遇政策の継続をアリーが好ましく思っておらず、アラブの信徒の平等を目指していた事もムハージルーンの反感を買ったと思われる。
 そのためタルハとアッズバイルは密かにマッカに脱出する。マッカにはムハンマドの未亡人アーイシャがおり、アリーと不仲であった彼女がアラブ貴族達に呼び掛けて、アリーの政権転覆を画策していたからである。
 ここにウンマは遂に分裂し後継者争いが生じたのである。

 一方ウマイヤ家では、シリア軍を掌握していた総督ムアーウィアが反アリーを鮮明にしていた。
 大征服の時代、つまりアブー・バクル政権時代にシリア遠征軍を率いていたのはウマイヤ家のヤズィードであった。その弟がムアーウィアでシリア遠征にも加わっており、ウスマーン時代にシリア総督となってカエサリアなどの要塞都市攻略や海軍創設とビザンツ帝国やカフカースへの遠征、占領地における統治やアラブ部族の定着支援、軍営都市の整備など様々な施策を実施、配下の部隊や支配民の信頼を得ていた。
 この様に長くウマイヤ家の指揮を受けていたシリア軍は、ウマイヤ家の私兵と化しており、今や充分な忠誠を捧げていた。また彼らは比較的新しい時期にムカーティラとなった者が多く、今回の戦いで勝利すればアターの増額など地位の向上が見込めるため、士気も高く結束も固かった。
 彼らの支持が確かなものであると確認したムアーウィアは、政権奪取の決意を固めていまと考えられる。

 また反アリー派の教友勢力の代表タルハとアッズバイルの二人は手を組み、ムハンマドの未亡人アイーシャを味方に付けていた。
 特にタルハは反アリーの急先鋒であり、自身こそが最もハリーファに相応しいと考え、協調を重んじ優柔不断にも思えるアリーを軽んじていた。彼がウスマーン暗殺の黒幕であると考える人々もいた。
 アッズバイルはやや消極的であったが、彼の息子らが将来のハリーファの地位への野心を持っており、アリー家の台頭を座視出来ないと考えて父を扇動していた。
 アイーシャはアブー・バクルの娘であり、アリーとは自身の貞節の問題が起きた時に彼女を糾弾したアリーとは犬猿の中であった。
 彼ら3人はサワード(イラク)を手中に納めるべく、マディーナを出立しバスラに進軍して現地の軍隊の支持を集め、ここを根拠地とした。
 パルティア、サーサーン朝期を通じて開発が進み、灌漑農業によって膨大な収穫量を生み出すサワードを確保すれば、帝国を維持する資金を得ることが出来るからであった。
 
 アリーもサワードを奪われれば敗北は必至と見て、この討伐を決定した。彼が拠点としたのはイラクのもう一つの軍営都市であったクーファであった。クーファ総督アブー・ムーサーは日和見的な態度を最初採っていたが、アリーがクーファ近郊まで進出してくると、クーファ市民はハリーファに味方することを決定した。
 以後シーア派に好意的な都市としてクーファは、その活動拠点となっていく。全軍の半分以上に当たる6000名とも12000名とも言われるクーファの援軍を得たアリーは、バスラ討伐に出陣した。
 このように有力者が次々と離れていった結果、聖都マディ−ナは以後、政治的な中心となることはなくなっていった。
 
 イラクで対峙したアリー側とアイーシャらの勢力は、656年12月に戦闘におよびアリーが圧倒的な勝利を納めた。
 これが所謂「ジャマル(駱駝)の戦い」である。
 名称の由来は前線でラクダに乗って諸兵を鼓舞したアイーシャに由来すると言う。
 戦闘の結果タルハとアッズバイルは戦死し、アイーシャは捕虜となった。
 アリーはアーイシャを丁重に遇してマディーナに送り届け、アーイシャも以後はムハンマドの諸伝承を伝え、人々を教化する生涯を選択した。

 この勝利でバスラ軍を吸収したアリーは、ウンマの安定のためにムアーウィアに忠誠を誓うよう要求した。
 しかしムアーウィアは、ウスマーンの任命した総督の解任など反ウマイヤ家の政策の継続やウスマーン暗殺の真相と首謀者の処刑が行われない現状に不満を持ち、またハリーファ就任の経緯が不明確なアリーの登位を認めずに、これを拒んだ。
 アリーは軍事的な衝突は不可避と考え、ムアーウィアに対抗するため、前述の如くバスラの公庫を開き60万ディルハムとも言われる大金を全て兵士達に分配した。
 加えてアブド・アッラーフ・ブン・アッバース率いるバスラ所属のムカーティラ達やイラク全土のアラブ戦士達を動員して決戦に備えた。
 その数は後方部隊を含めておよそ10万名に達したと考えられる。またアリーはシリアを占領した暁には、バスラで行ったような銀貨の分配を約束してバスラ兵を含むムカーティラ達の戦意を鼓舞した。この様にアリーの軍隊は旧サーサーン朝の部隊ハムラー・ダイラム軍を含む、様々な不満を抱えたイラクのムカーティラが中心であり、彼に真に忠誠を持って仕えていたのは、およそ8000名の彼のマワーリーとアンサールを中心とした非主流派アラブ部族を中心とする軍隊だけであったと推測される。しかし彼らの大部分は戦闘員ではなく、アリーの身の回りの世話をする人々であった。
 またムアーウィアとの戦いを拒否する部隊も当然あったため、危険を回避するためアリーは希望する者数千名にアターを与えてダイラム地方に送り出した。

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