頑固猫の小さな書斎

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ウスマーンの治世その2

 ウスマーンの最大の功績はアルクルアーンの読み方の統一を推進した事である。
 元々子音のみで表記されるアラビア語は難解であり、その字義的解釈は当人の知識量に依った。当然、クルアーンは時間を経るにつれ地域毎に差異が生じる結果となった。またムハンマドとその秘書たちによるメモや草本はあったものの、全体を統一してまとめたものは存在せず、基本的にクルアーンは口伝によって広められていた。
 フザイファ・ブン・アルヤマーンの提言によりウスマーンはクルアーンを結集して基本テキストを作成し、読み方に関してはマッカ方言を基本としたものに統一する事を決定したと言う。
 最もクルアーンの結集を誰が最初に提言し、実行に移したと言う過程は伝承によって差異がありはっきりとしない。我々が知り得るのは、何らかの編集を経て現在の底本が作られたという事実である。内容自体はムハンマドの言行とほぼ同じであると考えるのが妥当であるとされているが、各章の配置や編成に様々なバリエーションがあったといわれている。


 新たに作成された定本は各ジュンドに送られて、その他の私製本は破棄させたのである。
 これが所謂クルアーンのウスマーン本である。
 果たしてウスマーンの時代に本当にこの様なテキストの統一がなされたか疑問を呈する学者は多い。しかし現在のイスラームは自分達のクルアーン・テキストがウスマーン本と同一であると言う事を前提として成り立っている。つまりウスマーン本の権威が揺るがされる事は今後もないと思われる。

 征服活動に関しても当初は順調に推進された。
 シリア、地中海方面ではムアーウィアの努力によってイスラム海軍が創設されビザンツ帝国の制海権を崩壊させる事に成功した。
 エジプトでもウスマーンの乳兄弟イブン・アブー・サルフによって海軍の編成がおこなわれて北アフリカ征服のための支援体制が構築された。
 またムアーウィアはアルメニア方面にも兵士を送り込みハビーブ・ブン・ムスリマ率いる遠征軍はコーカサス方面のキリスト教諸国を制圧して行った。北アフリカ征服はアブド・アッラーフが収集した新兵によって増強されたエジプト軍によってなされ、チュニジア方面を制圧し、ヌビア方面など内陸部とは協定を結んで交易における安全保障を約した。

 しかしこうした遠征はウスマーンの治世半ば頃から停滞をし始めた。
 補給路が伸び切り軍隊の的確な展開が難しくなったからである。
 ビザンツ帝国国境は縦深のある軍隊配置とタウロス山脈と言う自然境界に拠る事で防衛体制が確立された。そのため侵入をしても征服地の確保が難しくなり領土の拡大には結び付かなかった。東方でもトルコ系遊牧民との境界まで達すると俄然抵抗が激しくなり、勝利はおぼつかなくなった。北アフリカに関してもべルベル人の抵抗は激しく征服活動は時に敗北を喫する事もあり進まなくなっていった。

 戦争での勝利がなくなった結果、戦利品収入は減少し、マディーナ政権は収入不足に直面する事となった。
 イラクの豊かな生産能力を中央財政に充てる事が順当な対策であったが、灌漑農業地帯に私領を形成しつつあったアラブ軍人の有力者の反対によって実行は困難を極める事となった。

 ウスマーンの死

 ハリーファ=ウスマーンの統治後半はそれまでの拡大が収束し、いわば内政の充実の必要性に直面した時代であった。
 平和な時代となったとも言えるが、逆に言えば兵士不遇の時代に突入したと言う事である。
 このハリーファのマディーナ政権に管理され、各地に設置された軍事基地(ミスル)に所属し、官庁(ディーワーン)に登録管理され俸給を受け取る事の出来る正規のアラブ兵士達はムカーティラと呼ばれる。ムカーティラとして俸給を得る事は、ムスリムのアラブ戦士のみの特権と考えられるようになっていた。

 勿論初期のイスラームの軍隊は、このムカーティラの他にも様々な部隊が存在した。
 旧ササーン朝軍の投降兵士からなる部隊。これは元々フスラウ2世の親衛部隊だったハムラー・ダイラム軍と、サーサーン朝の正規の騎士からなるアサーウィラ軍、その他の傭兵や不正規軍(ズッド族、アンダガールなどの非ペルシア系の部隊)などからなっていた。特にハムラー・ダイラム軍とアサーウィラ軍は、後にクーファに移住し、ムカーティラと同じく高額のアターを与えられるなど優遇措置が執られていた。
 征服した地域から収集した現地人部隊も多数存在していた。弓兵として著名な中央アジアのブハラ出身の奴隷兵部隊ブハーリーヤなどである。 彼らは集団として様々な主君を渡り歩き、不利な立場となれば降服や裏切りを厭わなかったため、その運用には常に注意が必要であった。
 またイスラームに改宗した非アラブ系の人々や解放奴隷からなるマワーリーと呼ばれる人々を武装させた部隊も存在した。主に主君に忠実な家内奴隷の変化した彼らは、正規軍が頼りにならないときなどに権力者の私兵として活躍し、後々には軍隊の主役にまで発展していった。
 後の時代の反乱者ムフタールなどは過酷な徴税に耐えきれず困窮、流民化した人々からなるマワーリー部隊を大規模に用いたことが知られている。ウマイヤ朝の名君アブド・アルマリクもシリア軍団との縁故が少なかったためマワーリー部隊を重用していた。
 その他は民兵としてギリシャ系、アフリカ系の傭兵などもいたと考えられる。
 特に海軍はシリア人が重用され、ビザンツ帝国に対抗していた。

 しかし征服活動で主役を演じたのは、やはりムカーティラ達であった。
 彼らは征服地にもうけられた軍営都市ミスルに駐在し管理された。ウマイヤ朝の時代にはシリアに合計35万。イラクではバスラに8万、クーファに6万、その他の地域に15万。エジプトには4万のムカーティラが存在したといわれる。
 大征服の時代には、おおよそ家族を含めて130万ものアラブ人の拡散があったとも言う。
 そのムカーティラの中でもアラブ軍最精鋭の部隊とされたのは、ムハンマドの死後もイスラーム共同体(ウンマ)に忠誠を守り続け、イスラームの剣ハーリドの指揮の元各地で離反した人々の討伐に参加し、ビザンツ帝国遠征、ササーン朝ペルシア征服に従事したアラビア半島のヒジャーズ地方出身の、後にクッラーと呼ばれる遊牧民達であった。

 彼らクッラーは征服活動の収束した後も、戦利品を受け取らずとも高額な俸給(アター)を支給され、生活は保証されていた。
 また占領地の私有化など、征服活動を通じて様々な利権を得ていた。
 それに対して反乱側から再びウンマに参加した者や、後になってアラブ軍に編入された兵士達はクッラーより遥かに低額のアターしか支給されず、そのため戦利品の得られない平時の生活は苦しかった。
 こうした下級ムカーティラは次第にマディーナのハリーファに不満を抱き、各総督府の公庫を開き、金品を分配するよう要求し始めた。クッラーの内でもイラクに利権を持つ人々はこれを取り上げようとするウスマーンに対して危機感を持った。
 この背後には、ウマイヤ家(のスフヤーン家)の権力独占に警戒感を抱いた他の有力者達ムハージルーンの策動があったのではと想像する事も可能あろう。

 クッラーの不満はやがて爆発した。
 ヒジュラ暦34年(西暦654/655年)。ウスマーンが29年に任命した親族のクーファ総督サイード・ブン・アルワースが、不満を抱いたクーファ市民によって、都市から締め出されると言う事件が起こったのである。
 この事件があったとき、サイードはクーファを離れており、政情不安が広がる中で各地の総督達らと、マディーナのハリーファの元に集まり合議中であったと言う。
 この機会を狙って、かねてよりサイードに不満をもっていたクーファ市民が決起したのである。彼らはサイードの帰還を拒否した。直接の起因は、サイードの政敵で、クーファからシリアに追放されていたアシュタル・マーリク・ブン・アルハーリス・アンナハイーの扇動であったと伝えられている。サイード不在の時、クーファに突然現れた彼は、サイードが(正確にはハリーファのマディーナ政権が)、アターの減額を検討している事を暴露したのである。
 ムカーティラに年に一度支給されるアターは、サーサーン朝ペルシアとの戦役にいつから参加したかによって、定められていたと言われている。
 決戦であったカーディシーヤの戦いより前から、ジハードに参加していた場合は、3000ディルハム。
 カーディシーヤの戦いから参加した戦士は2000ディルハム(ただし、この会戦で軍功を挙げたものは2500ディルハム)。
 それより後に参加したムカーティラは、1000、500、300、250と時期によって徐々に少なくなる取り決めであった(数値については異説あり)。
 また、その妻に関してもムカーティラの夫の参加時期によって等級付けされたアターが与えられていた。
 アシュタルは、この内女性のアターの半減と、特別に2500ディルハムを与えられているムカーティラのアターの減額をウスマーン政府が計画している事を知り、クーファ市民に告げたと言われている。征服地から得られる利権の分配の権限を、クーファ有力者からハリーファのウスマーンは中央政府に回収しようとしたのである。またそれ以前クーファでは総督サイードが、ムカーティラの不満を解消するべく、遠征を企図して戦利品を獲ようとしていた。しかし最初に計画したクーミスやタバリスターンへの遠征は、山岳民族の根強い抵抗によって、遅々として進まず撤退を余儀なくされた。改めてアゼルバイジャン地方へ進撃したものの、バランジャルの戦いでこの地方の諸侯に完敗を喫してしまう。
 結局サイードは、ムカーティラが満足できるような利益を得られず、不信感のみを増幅させた結果となったのである。またアターに関しても、基本的に各部族ごとに一定の金額が分配される制度であったため、特権を有するクッラー以外では、部族に所属する人数によって格差が生じてしまう歪なものとなっていた。クーファは、同じ軍営都市であるものの特定部族が多数を占め、不均衡の生じにくいバスラと違い、様々な部族が混在し、適切な対応がなければ不均衡がすぐに顕著となり、流入する人々も増加の一方であったことが知られています。またウマイヤ家出身のバスラ総督イブン・アミールは、ホラサーンへの遠征を成功させ、サーサーン朝の領域の完全な合併を成し遂げるなど、軍事的に成功し、その分戦利品も豊富であった。そのためバスラのムカーティラは特に不満を爆発させることなかったのである。
 無能と判断したサイードに対して決起したクーファのクッラーは、新たな総督としてアブー・ムーサー・アシュアリーを推戴し、アシュタルは軍勢を周辺地域に送り込んで、イラク北部の実効支配を確立してしまった。
 反乱を聞きつけたウスマーンは無秩序に繋がる、このような要求を断固拒否したが、結局クーファの民の反乱を抑える事は出来なかった。アブー・ムーサーはハリーファによって総督の地位を承認され、クーファは実質自立してしまったのである。
 アシュタルはムカーティラの不満を和らげるため、旧サーサーン朝王室が各地に貯蔵していた大量の銀塊を、政府の国庫から押収して銀貨を鋳造し、クーファのムカーティラにアターとして定期的に分配した。ムカーティラ達は一応これに満足したようで、その後アシュタルの元では過激な行動は見られなくなる。
 しかし、他の地域のムカーティラ達はこの様な対応が取られず不満は蓄積していった。ウスマーンは、ムカーティラ達の特権を認めず、これを何とか押さえて、国家の統制下に服させようとした。ハリーファは将来において、ハリーファ政権がペルシア帝国のような強力な中央政権を確立できるよう夢想していたのだろう。だがその結果、兵士達の大規模な反乱が遂に発生すると言う事態を招いてしまったのである。
 各地のムカーティラは続々とマディーナに集まり事態は危急の状態となった。。
 兵士達は、ハリーファにウマイヤ家の総督の罷免と俸給の増加を求めた。
 ウスマーン以下の人々は、対策を延々と話し合ったが、有効な手を打てず、これがハリーファの威信をさらに大きく傷つけた。
 要求を認められなかったムカーティラ達は、アッズバイルら反ウスマーン派アラブ有力者に煽動されウスマーンの自宅を包囲した。
 656年6月17日、主にエジプトのフスタートのムカーティラの一団が中心となって室内に乱入し、ウスマーンをその妻もろとも殺害した。
 
 この結果マディーナは、略奪と虐殺の巷と化し、無政府状態に陥ってしまったのである。

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