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ファーティマ朝通史3「マフディーの治世」

 それ以前の893/4年、これまでのアルジェリアのクターマ系ベルベル族との数度の接触の結果、好感触を得ていたサラミーヤの教宣組織本部は、イエメンのサナア出身のマワーリー、アブー・アブド・アッラーフ・アッシーイー(別名アルハサン・ブン・ザカリヤー)を聖地に派遣、巡礼に訪れていたクターマ族の指導者と交渉させました。
 901年、アブー・アブド・アッラーフは、マグリブに足を踏み入れ、アルジェリアのカビール地方イクジャン市に支部を構えると、クターマ族、センハージャ族やハッワーラ族など多くのベルベル人をイスマーイール派に改宗させる事に成功します。
 イクジャンの勢力はその後、イスマーイール派の存在を察知したアグリブ朝の攻勢を凌ぎ、903年には反転攻勢に出ることが可能なまでに成長していきます。この時、アグラブ朝は、アミール=イブラヒーム3世の失政で、民衆の離反を招いており、弱体化していた事もイスマーイール派の成功を後押ししました。
 また902年に、イスマーイール派内の反対派の脅威もあってアブド・アッラーフと、その子アブー・カースィムがサラミーヤを脱出、アルジェリアを目指していました。二人とその部下達は合計8名の少人数でありは、商人に変装し、エジプトに入り、アレクサンドリアに到ったと伝えられています。また女性親族7名も従者をつけて、別経路で北アフリカに向かわせました。
 しかしアレクサンドリアを出て、さらに東に進もうとした一行についてアッバース朝のアレクサンドリア総督イーサー・アンナウシャリーは情報を掴み、捕縛のために追っ手を差し向けました。幸運にも追っ手の騎兵は変装を見破れず、一行は何とか逃れ去ることができました。
 失敗にいきり立ったバグダートのハリーファ=ムクタフィーは、アグラブ朝アミールとミドラール朝のシジルマーサ領主アル・ヤサウに依頼して、一行を捜索させます。
 そして厳しい追跡の結果、905/6年ミドラール家はアッバース朝、アグラブ朝の情報を元にアブド・アッラーフの隠れ家を発見することに成功しました。
 包囲されたアブド・アッラーフは身の安全と引き替えに降伏し、シジルマーサのスフリ派のハワリージュ派の監視下で、捕らわれの身となってしまったのです。しかし実際にはアル・ヤサウはアブド・アッラーフの正体に気付いておらず、商人であると思っていたとの伝承もあります。莫大な贈り物を受けたアル・ヤサウは、アッバース朝に彼を引き渡す事もなく、アブド・アッラーフがシジルマーサで自由に交易を行う事も許可しました。
 結局、909年にイスマーイール派ベルベル族がシジルマーサで蜂起し、彼を救出することになりますが、後にファーティマ朝を批判する人は、「本物の」アブド・アッラーフがこのとき殺されたと中傷しました。
 シジルマーサにイスマーイール派の軍隊が進撃してきた時、アル・ヤサウに詰問されたアブド・アッラーフは、自分は彼らが捜しているアブド・アッラーフなる人物とは関係のない、一介の商人でしかありませんよ、と惚けたと言います。
 あるいはこの事件自体が虚構なのかもしれませんが。
 一方、アブー・アブド・アッラーフ・アッシーイーはクターマ族を従え、征服活動を順調に遂行していきました。
 904年にはセティフを、906年にはトブナを征服し、チュニジア中央部をほぼ制圧。数年の準備の後、909年遂にカイラワーンを征服、アグラブ朝を瓦解させました。
 西方では同909年にルスタム朝の首都ターハルトを征服し、同王朝を滅ぼし、前述のごとくスフリ派の拠点シジルマーサへも侵攻しハワーリジュ諸派に大打撃を与えました。
 救出されたアブド・アッラーフは、カイラワーン近郊のラッカーダで910年1月15日、即位宣言を行い、イマーム(あるいはハリーファ)・マフディーを名乗ったのです。そしてアッバース朝ハリーファではなく、自身の名でフトバを行うよう宣告しました。
 加えてハリーファは自身の権威を脅かしかねないアブー・アブド・アッラーフ・アッシーイーを、翌年911年、弟もろとも暗殺しました。謀略家らしい現実的な判断であったと言えるでしょう。

 こうして足元を固めたアブド・アッラーフ改めアル・マフディーは、全イスラム世界征服を目指して活動を開始したのです。

 さて一般にウバイド・アッラーフことアブド・アッラーフは自らの系譜を公開せず、他派の中傷、情報操作もあって、血統について疑問を持たれ続けたことは前述しました。
 最も有名な説は、彼がムハンマドの子孫ではなく、カッダーフ家の出自であるという説です。これはアッバース朝に仕えるイブン・リザームによって、10世紀頃に行われた政治宣伝に基づいた説です。
 カッダーフ家の祖マイムーン・カッダーフはシーア派イマームであるムハンマド・バーキルやジャーファル・アッサーディクに近侍していた人物でした。イブン・リザームらは、ファーティマ朝初代ハリーファであるアブド・アッラーフと、このマイムーン・カッダーフの子アブド・アッラーフを同一人物であるかのように記述、宣伝して、ファーティア朝の正統性を誹謗する活動を推進したのです。
 加えて、このアブド・アッラーフ・ブン・マイムーンをキリスト教徒の異端者で、自らを預言者であると自称し、イスラームの破滅画策する人物であるかのように喧伝しました。マイムーン一族は、実際には、ムハンマド・バーキルやジャファル・アッサーディクのハディース伝承者であり、シーア派ムスリムでなのですが。
 歴史学的には、この二人のアブド・アッラーフの活動期間は1世紀近くもの開きがあり、常識的に判断すれば、二人が同一人物などとは、ありえない主張のように思えます。
 しかし正確な歴史的な情報を得られない当時において、わざと虚位と歴史的事実を混ぜた文献が、権威ある人物から公表されれば、それだけで十分な真実として受け入れられる余地があったのでしょう。
 一般にスンナ派内にイスマーイール派は、極端な異端であると感じる人々が多くいたのは、この宣伝効果によるのかもしれません。しかも、イスマーイール派内にも、ファーティマ朝王家がマイムーンの血統であると信じる一派があったことを伺わせる資料があるそうです。これは、マイムーンとその子アブド・アッラーフが、初期のイスマーイール派の活動に関与していたことを伺わせます。マイムーンを神聖視する一派が存在し、ファーティマ朝もこれを無視できなかったのかもしれません。ファーティマ朝のイマーム=ムイッズは、カッダーフ家との血の繋がりを公的に否定していますが、自身の血統を正式には公表しませんでした。一体、ファーティマ朝の態度にはどんな理由があるのでしょうか。史料は黙して語らないというのが現状のようです。

 預言者のハデーィスの中でも、アブー・ダーウードの記した伝承の中にある次の有名な言辞は、後々の様々な分派運動に影響を与えたことで名高い。

 「神は私(ムハンマド)の血を受け継ぐ一人の男を遣わされる時まで、その日(終末)を延長なさった。その男の名(イスム=本名)は私の名と同じであり、その男の父の名は私の父の名と同じである(つまりアブド・アッラーフ)。マフディーは、ファーティマの子供の血を継いだ我が一族の者である」

 このハディースは、アッバース朝のザイド派への警戒を喚起させた事でも有名であり、十二イマーム派の含めて、シーア派の救世主論に関する重要な基盤となったのです。
 マフディーは自分の息子(第二代イマーム=カーイム・ビ・アムリッラー)こそ真のマフディーであると期待していたようで、イスムをムハンマドと名付け、クンヤも預言者ムハンマドと同じアブー・カースィムとしました。またカーイムの即位名は「剣を持って立ち上がる者」を意味し、救世主マフディーとほぼ同意義でもあります。自分自身も公式の場ではアブー・ムハンマド・アブド・アッラーフと名乗ったようです。

 マフディーは913/4年にはエジプトへ遠征軍を送り、アレクサンドリアを占領、フスタートに侵攻しました。しかし、アッバース朝のハリーファ、ムクタディルの派遣したアトラーク軍に敗退し、撤退を余儀なくされます。ファーティマ朝は、919/920年にも遠征軍を派遣したものの、組織、装備ともに優れたアトラーク軍に、ベルベル軍団は敵し得ず、これも失敗に終わってしまいます。このためファーティマ朝政権はエジプト征服を、当面断念せざるを得なくなったのです。この2回の遠征で有名をはせたのがトルコ系のアトラーク軍の武将ムハンマド・ブン・トゥグジュで、アッバース朝ハリーファより、イフシードの称号を賜り、後エジプト総督に任命され、やがて独立することになります(イフシード朝935〜969年)。
 マフディーは西方のイドリース朝へも遠征軍を送り、首都フェスを921年占領しました。しかしアンダルス・ウマイヤ朝の介入やこの地域のザナータ系ベルベル族がイスマーイール派への反抗を繰り返し、この地域でも恒久支配を打ちたてることは出来ませんでした。
 この様な、宗教的な要請に基づいて実力以上の遠征を繰り返し、多くが失敗したことは、マフディーの政治基盤を揺るがす事になっていきます。
 ただシチリア島の征服、保有には成功しました。
 シチリア島は、872年に、ビザンツ帝国の将軍エウフェミオスが反乱を起こした際、チュニジアのアグラブ朝に支援を求めたことを契機に、イスラムの侵略の対象となりました。アグラブ朝の将軍アサドは、828年に初めて遠征を行い、この時期、海軍が弱体化していたビザンツ軍を破るとシチリア島の一部を占拠しました。以後アグラブ朝の強力な艦隊に支援されたシチリア総督(ワーリー)は、第2代ムハンマド(828年〜829年)、第3代ズバイル(829年〜830年)の時代に征服活動を続けていきます。彼らワーリーは、あくまでアグラブ朝に任命された忠実な役人であり、独立した存在ではありませんでした。
 831年には、シチリアの首都とも言うべきパレルモが遂に陥落しました。そして、ゆっくりとではあるが次々に他の諸都市も征服されていき、902年のタオルミーナ占領によって、全島がアグラブ朝の支配下となったのです。
 征服された地域はイスラームの兵士達に分配地(イクター)として与えられ、徴税権などが彼らに委ねられました。イスラームの移民が増え、ギリシャ系が優位であった島は、ムスリムが次第に多数派となっていく情勢を見せ始めたのです。
 909年アグラブ朝が瓦解すると、十ニイマーム派で前総督であったアリー・アブー・ファハーリスが現職のアグリブ朝総督アフマドを追放、自立しました。
 シーア派住民と協力した内部クーデターによって政権を樹立させたのです。
 彼らはファーティマ朝に友好的な外交姿勢を見せたものの、イスマイール派ではないアブー・ファハーリスは、910年にマフディーの信用を得ることが出来ず、やがて追放されてしまいます。
 替わってクターマ族出身のハサン・ブン・アフマドをシチリア総督としてファーティマ朝は送り込みました。
 ところがハサンはアラブ系住民を冷遇し、彼らの反乱を招くと言う失政を犯してしまいます。しかし反乱はファーティマ朝軍によって、すぐさま鎮圧され、シチリアの政情は安定し、パレルモなどはファーティマ海軍の軍港として以後機能しました。
 またハサンは、イスマーイール派のカーディーをパレルモに呼びよせます。
 総督は彼らに司法を任せ、金曜の説教(フトゥバ)の際にはファーティマ朝ハリーファの名を唱えさせ、イスマーイール派による宗教的支配権を人々に承認させたのです。
 
 マフディーは即位後に新首都マフディーヤを、カイラワーン東の海岸部に建造しました。915年に開始し、920年完成することになります。
 この強固な城塞をマフディーは、ビザンツ領などの地中海沿岸や、宿敵アッバース朝に対する東方遠征の拠点としました。
 ですが結局、エジプト遠征やモロッコ侵略は失敗に終わり、益少なく労多しと言う結末となってしまいました。マフディーは自分の治世での革命を諦め、息子に救世主としての役割を期待する事になります。
 しかし遠征費用やキリスト教徒、アンダルスの艦隊から沿岸部を防衛する艦隊維持費用の捻出のため、従来のマリーク派のイスラーム法にない通行税など、多数の新税を創設、あるいは旧税の徴収を強化し、売官行為すら認めました。
 そのためハワーリジュ派を中心としてベルベル農民に不満が蓄積して、新王朝は基盤が揺らぎ始めたのです。
 前述のように、マフディーは息子にムハンマドの名を与え、ハディースにある救世主たることを期待していました。しかしマフディーの死後即位したムハンマド・アブー・アルカースィムの治世は、安定せず反乱が多発し、アッバース朝打倒など夢のまた夢、不可能と言う他ありませんでした。

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