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ファーティマ朝通史2「ファーティマ朝前史」

 8世紀半ばも過ぎた頃、逼塞していたイスマーイール派が再び表立った行動を開始し始めます。
 やがてファーティマ朝、あるいはウバイディユーンと後世呼ばれる事になるシーア派政権が誕生した背景には、アッバース朝の勢力が縮小し、辺境地域への統制が及ばなくなった事、イマーム派の後継イマームがアッバース朝に監禁、暗殺され後継者を失い、シーア派の一部がイスマーイール派に流れたことなどの要因があったと言われています。
 当時はイスラーム世界全体に、停滞の気配が感じられ、終末思想が人々に受けいられ易かった事もありました。
 イマーム派も指導者を失い、いつまで待っても現れないマフディーを待つことに疲れた人々。自分の生存中、あるいは子や孫の世代での、現世での何らかの変化を期待する人々。その他非ムスリムの下層民など現状に不平不満を持つ様々な人々が、イスマーイール派に吸収されていきました。
 また逆に現世的な利益ではなく、知的宗教的に現状の宗教指導層や神学に不満を持つ人々も先鋭的な思想を持つイスマーイール派に合流していったかもしれません。
 何にせよ時流は変化しつつあり、隠れていた人々が姿を現し行動すべき時が来たのです。

 そもそもイスマーイール派と言う呼び名は、後世の分派学者らによる他称です。自称としてはただ「正しく導かれた教宣組織(アルダァワ・アル・ハーディア))」と書簡などで称していました。王朝を確立した後にはアリー家の王朝(アッダウラ・アル・アラウィーヤ)またはムハンマド家の王朝(アッダウラ・アル・ナバウィーヤ)と言うのが、言わば自称であったと推測されています。

 外部や後世の人々からファーティマ朝と呼ばれる由来は、ファーティマ・アッザフラー(615−632)に帰されています。彼女は預言者の娘であり、シーア派、スンナ派を問わず非常に重要な人物です。ファーティマ・アッザフラーは、預言者ムハンマドとハディージャの娘としてイスラーム暦第6月20日にマッカで生誕し、ハリーファ=アリーと成人後結婚しました。彼女はアリーとの間に、ハサン、フサインの二人の息子と、ザイナブ、ウンム・クルスームのニ人の娘を生みムハンマドの血統を後の世に伝えたのです。
 つまりファーティマ朝は、ファーティマの血統を継ぐアリー家の血筋を称したため、後の分派学者によって、そう呼称されることになったのです。
 ファーティマ朝(909〜1171年)は、イスマーイール派に属していた長期政権として後世大きな足跡を残しました。

 弾圧のため沈黙を余儀なくされ、歴史の表舞台から全く消失していたイスマーイール派は、9世紀末ごろからイスマーイールの直系でムハンマドの子を称するアブド・アッラーフ・アルアクバルの指導下で活動を再開、その行動は急速に活発化しました。
 アブド・アッラーフはアフワーズ出身で、フーズィスターンのアスカル・ムクラムやバスラなどで商人として各地を移動しつつ、経済活動を行っていたようです。彼はサラミーヤに拠点を築こうとしていたイスマーイール派によって、かの地に招かれ以後サラミーヤを本拠として布教活動を本格化します。
 この時期のイスマーイール派は幾つもの少数派に分裂していたと考えられています。901年にアッバース朝によって討伐されたあるコミュニティは、クーファ近郊の貧農層が互いに食料を融通し合う様な互助組織が基盤であったようです。食糧にも事欠く様な人々にイスマーイール派は援助をする事で信用を得て、組織に加えようとしたと考えられます。


 サラミーヤは、シリヤ中央部に海抜1500フィートの豊かな高原に存在する都市で、イラクと地中海を結ぶ陸上の交易ルート上に存在し、中継貿易によって古代より繁栄してきた都です。ウマイヤ朝勃興期には、かなり衰退していたのですが、アッバース家のサーリフ・ブン・アリー(769年没)が、アッバース革命後に住みつき、都市を再び興隆させました。その後、ハーシム家(ムハンマドの曾祖父の子孫達。ムハンマド自身やアッバース家、アリー家も含まれる)に連なる者達が多く住み、彼らの活動拠点となりました。皮肉にもシーア派の人々も密かに集まり始め、特にイスマーイール派の隠された拠点となっていったのです。

 アブド・アッラーフは普通の商人を装って、当時のサラミーヤ総督ムハンマド・ブン・アブド・アッラーフ・ブン・サーリフと面談して滞在許可を得ると、目抜き通りの市場に邸宅を買い取って住むようになりました。以後この邸宅がイスマーイール派の本部となりました。一説によると、各地の宣教員からの膨大な寄付と商人としての経済活動によって、アブド・アッラーフは膨大な財産を築き、また財力にものを言わせて、自身の邸宅からラクダが悠々と通過できる秘密の地下トンネルを掘って郊外と連絡を取っていたそうです。またアブド・アッラーフは客人やシリアの様々な有力者に膨大な金額の贈り物を気前よく与えて、人々の好意を手にしていたと言います。

 アブド・アッラーフの組織が、イスマーイールとその息子ムハンマドが指導したはずの8世紀のものと、同じ系譜に連なるのか、全く別のものなのかは判然としません。イスマーイール派組織が地下に潜ったため史料がなく、その動向が掴めなくなったためです。初期のイスマーイール派との教義の違いから、現在では大アブド・アッラーフの指導した組織とは別物であろうとする説がやや有力なようです。
 アブド・アッラーフやその子孫は、ムハンマド・ブン・イスマーイール・アルアーラジュ・ブン・ジャーファル・アッサーディクの子孫であったと主張して、教団員に自らの権威の正統性を顕示していましたが、表だって活動し始めたのは九世紀も末のことでした。彼らの教宣組織は、アブド・アッラーフの曾孫ウバイド・アッラーフ(ただしイスマーイール派文書ではアブド・アッラーフ。本当のイスムは不明。そのため以後アブド・アッラーフで統一します)の時代に転機を迎えます。
 ウバイド・アッラーフことアブド・アッラーフは873年頃?サラミーヤに生まれたとされています(バグダードで生まれたとも言われていますが)。 
 このアブド・アッラーフの系譜は、ファーティマ政権も明らかにしておらず、数々の疑惑が持たれました。スンナ派の歴史家では、イブン・ハルドゥーンとその弟子マクリーズィーが正当性を認めているくらいで、ほとんどの歴史家が疑義を唱えているようです。しかし現在では、スンナ派による宣伝工作による歪曲を排除し、彼の書簡内容などの研究結果から、その正確な系図は不明ではあるけれども、おおむねイマーム=ムハンマドの子孫であろうと考えられているようです。
 ただイスマーイール派のウバイド・アッラーフにいたるイマームの継承は、おそらく公に出来ない「何か」があったと思われます。アリー家と全く関係ないと言う根本的なものと言うよりは、アブド・アッラーフが直系ではなく、イスマーイールの血筋であるけれど、継承の正統性に疑義を持たれるような形があったのでは?と思われます。

 ちなみにイスマーイール派の公式の系譜は以下の様になります。

 ムハンマド・ブン・イスマーイール→初代フッジャ=アブド・アッラーフ・アルアクバル→第2代フッジャ=アフマド→第3代フッジャ=フサイン・ブン・アフマド→ウバイド・アッラーフ(初代イマーム・ハリーファ=マフディー、アブド・アッラーフ)

 しかしハームの研究によれば、第2代フッジャはムハンマド・ブン・アフマドではないかとしています。ムハンマドの娘はマフディーの妻となって(つまり従妹と結婚)息子カーイムを生んでいます。しかし本当はマフディーはムハンマドの子であり、妻がフサインの娘であったとすれば、カルバラーの悲劇で死亡したフサイン以来イマームの今までの継承が父から子に引き継がれていたと言う伝統に反し甥に継承された事になります。あるいはフサインの子であったのですが、フッジャの地位にはムハンマドが継承しフサインが就いていないとしても甥による継承となります。この点が彼の正統性を語る上で問題とされたのでしょうか。

 さてサラミーヤの組織は、イラン、ジャズィーラ、イエメンシリヤ、バフライン、北アフリカ、エジプトなどイスラーム世界のほぼ全土に、宣教員(ダーイー)を派遣し、様々な階層の人々への改宗を試みました。また前述のごとくイマーム派の混乱(十一代代イマームの死による)に乗じて、彼らの吸収を謀り、ある程度それに成功しました。こうしてイスマーイール派は教勢を大いに伸ばしました。
 初期イスマーイール派の教義は、ムハンマド・ブン・イスマイール・アルアーラジュ・ブン・ジャーファル・アッサーディクが死んだのではなく、実はアッラーフよりイマーム故の長命の恩寵を賜り、ビザンツ帝国領土内に隠れ潜んでおり、我々を導き、マフディーとして再臨し、変革をなす時到るのを待っているのであると言うものでした。つまり他のシーア派にも見られるガイバの思想が根幹にありました。
 ところが組織が順調に発展し準備が出来たと判断したアブド・アッラーフは、自分が隠れイマームの代理人ではなく、代々秘密裏に継承されてきたイマームそのものであると宣言したのです。この「顕在イマーム」宣言は、イスマーイール派内部に衝撃をもって迎えられました。元来イスマーイール派は隠れイマームとしてのムハンマドの再臨を待望する派閥であったため、その教義を根底から覆すリーダーの宣言に困惑し、受け入れる事に反対する声があがったのです。アブド・アッラーフをイマームとして受け入れない事を決断した人々は、教宣組織から離脱しました。離反者達は、そのリーダーの名をとってカルマト派と呼ばれる事になります。
 カルマト派の創始者は、イラクの貧農出身であったというハムダーン・カルマトです。部下のアブー・サイード・ジャンナービーをバフラインに派遣して遊牧民を含む多数の改宗を成功させる等、指導力に富んだ人物でした。アブド・アッラーフの「乱心」によって自立を決意した彼は、899年にクーファ近郊ダール・アルヒジュラを拠点として分離活動を開始し、主に農民や都市下層階級を中心に教宣しました。初期は主にイラク南部を中心に略奪など反権力行動を実施し、シリアの主要部分を征圧するまでに勢力を拡大しました。そしてサラミーヤも占領されし、アブド・アッラーフの館は略奪されました。アブド・アッラーフはアッバース朝政府が彼を捕縛する準備を整えているとの情報も得ていた事もあり、財産も置いたまま事前に西方に逃走していました。
 902年サーヒー・ブン・ナーカ(ラクダ)と呼ばれたイマームが遊牧アラブの勢力を率いてトーゥールーン朝支配下のダマスカスなどシリアを荒らし回り、904年にはその後継者サーヒー・ブン・シャーマ(ほくろ)もシリア各地を略奪した。これらはイラクのカルマト派との関係があったと思われ、その指導者ジクラワイフの支持によって行動したと思われます。
 猛威をふるったカルマト派でしたが、906年アッバース朝の派遣したアトラーク軍団に大敗を喫してシリアから撤退を余儀なくされ、ジクラワイフも翌年に命を落とします。
 しかし分派が、ペルシャ湾西岸部バフライン一帯に宗教国家を創設して、教派は存続し、アラブ遊牧民との共闘や、周辺諸国のみならず内部にも敵を抱えているアッバース朝有力者とも同盟を繰り返すなど、外交的に生き残りを図ります。930年にマッカを襲撃して、カーバの黒石を略奪したことは、全イスラーム世界に衝撃を与えました。しかしアッバース朝やファーティマ朝と対立し、その弾圧を受けて、やがて衰退していきます。

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