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ファーティマ朝通史1「イスマーイール派とは」

 イスラームにおける分派の最大派閥であるシーア派には第4代ハリーファ=アリーの子孫の誰を奉じるかで大きく三つの流れがありました。

 第3子であるムハンマド・ブン・ハナフィーヤの系譜であるカイサーン派。
 次男フサイン系の子孫ジャアファルの子らから分岐した人物を奉じるイマーム派。
 主に長男ハサン系(フサイン系も含む)の子孫を奉じるザイド派。

 この内、現在主流となっているのはイマーム派です。
 さらにイマーム派は大きく分けてヌサイリー派(近代ではアラウィー派と自称)、アレヴィー派、ニザール派(ホージャ派)、ムスタアリー派(ボーホラー派)、ドゥルーズ派、シャイヒー派、バーブ教、バハーイー教、十二イマーム派に分裂し、十二イマーム派以外は現在極少数派となっています。

 これらの内、ニザール派、ムスタアリー派、ドゥルーズ派はイスマーイール派が分裂した結果生まれた分派で、中世においてはイスマーイール派がシーア派の主流であった時期があり、エジプトにファーティマ朝が成立した時代には大きな勢力を振るったのです。

 このイスマーイール派は、その分派の一つニザール派と関連して現代の日本人には認識されることが多いでしょう。
 ニザール派は十字軍の報告などで、いわゆる暗殺者教団(アサシン)として喧伝され、その秘密主義とあいまって多くの幻想と誤解の中で記述が続けられ、それは今もって変わりません。
 アサシンは偏見を通り越して、いわば伝説であって実態とは程遠いのですが、他者によるイメージの自己増殖は留まることを知らなかったのです。
 これは10世紀以後弱体化したアッバース家など、同じイスラームのスンナ派の政治的な情報宣伝の結果でもあり、情報源の不足した西欧で彼らの証言がそのまま受け入れられた結果でもありました。
 サファヴィー朝によってイランにシーア派政権が誕生し、西欧の人々の関心がシーア派に集まったときも、シーア派理解は表層的なものに留まったままでした。
 19世紀に東洋学が興隆し、十二イマーム派、イスマーイール派に関して欧米の研究者が著作を発表しだした時期ですら、一次資料の不足から体系的な研究がなされるには全く至らず、誤解と偏見は依然として残されたままだったのです。
 資料的な制約がある程度解消したのはようやく20世紀に入ってからで、門外不出だったイスマーイール派の秘蔵文書が公にされる事になり、ようやく文献学的研究が開始されて以後の事でした。
 また自身がシーア派であるムスリム研究者達が、一次資料たる写本のカタログ化、テクスト刊行を行い始めたこともあります。これは教団の維持拡大に必要と判断された結果の宗教的・政治的な意図をもとに行われたため、その成果には十分注意が必要でしたが、西欧のシーア派研究者達はようやく体系的な研究を進捗させる事が出来るようになりました。

 とは言え、その研究過程では俗なオリエンタリズム的偏見もあり、シーア派テクストの本来の意味に自身の思想や他宗教の文献の一部との類似を、融合、付加し、全体の趣旨もそうであるかのごとく操作してしまうなど問題も多かったと言われています。
 研究者によると、一般にイスマーイール派は初期の神話的教義から、東方の哲学的教義の影響を受けて、新プラトン主義的神秘主義が反映されたものへと変化していったとされています。だが研究はまだ途上で、明確な結論・定説は出ていないと言えるでしょう。
 結局、シーア派研究は少数の研究者では客観的な研究成果をあげるのは難しく、多方面からの相互批判を繰り返す形で、今後の研究の発展が期待されているのが現状のようです。

 さてイスマーイール派の始まりは、アルフサインの子孫(そして十二イマーム派の第6代イマームである)ジャーファル・アッサーディクの死に始まります。
 彼は優れた学者であり政府権力との確執を出来るだけ避けつつ一族の安泰を図り、だが同時に神学的、法学的にアリー家の権威確立を目指した人物であったとされます。
 彼は、父ムハンマド・バーキルとともに救世主マフディーが降臨するまで、現世のイマームの指導の元で平穏に過ごすよう説きました。
 また法学者としてジャーファルの直接、間接の弟子はシーア派以外にも多数あり、その名声を否定する者はスンナ派にもいないでしょう。
 この様に知性に優れ、血統も申し分ない彼を、イマームであると承認する人々は多く、アリーの子孫を支持する人々の中でも、やがて多数派を占めるようになっていったのです。
 ですが、それは遥か未来の話です。
 ジャーファルの生存中はイマーム派は主流とはとても言えず、カイサーン派が過激シーア派を主導していました。

 ところで学究に邁進し、シーア派の過激分子の熱烈な勧誘にもかかわらず政治活動には関わりを常に避けていたジャーファルは、血気盛んな正嫡子イスマーイール・アルムバーラクに危ういものを感じていたようです。
 十二イマーム派の伝承ではジャーファルは、イスマーイールがムスリムとして例えば酒飲みであるとか言う類の、道徳的に劣っていたが故に弟ムーサーを後継者にしたとされています。
 しかしおそらくはジャーファルが、イスマーイールとその子ムハンマドを後継者から除外したのは、イスマーイールが反政府的かつ秘密結社的な政治活動に身を投じ、耽溺していたためだったのだろうと推測する人々もいます。
 この結社・組織は原初のイスマーイール派と言うべきもので、父が眉をひそめる様な、過激な言動を繰り返していたのでしょう。前述のようにジャーファルは政治動向に気を使い、反乱に荷担することは決してありませんでした。こうした努力にもかかわらず、アリー家は弾圧を受け続けることになるのですが、ジャーファルの態度は後々に穏健主義派セクトの存続に繋がり、十二イマーム派の興隆の一因となった点で評価できるでしょう。

 さて765年にジャーファルがクーファで死亡(シーア派は暗殺されたとする)すると、イマーム派はその後継者を巡って複数のセクトに分裂することになりました。
 この様な分裂はシーア派の歴史では、よくある事件です。
 その主なものだけで、以下のような分派が知られています。

 ・ジャーファルの死そのものを否定し、その再臨を主張するナーウース派。
 ・ジャーファルの長子アブドゥッラーのイマーム継承を主張するアフタフ(ファトフ)派。
 ・ジャーファルの子ムハンマドのイマーム継承を主張するサミート派。
 ・イスマーイールの生前は、彼のイマーム継承権を主張していた人物、アブー・ハッターブ(彼はジャーファルに常に近侍していたという)の主導したハッターブ派。ジャーファルを神に擬し、自らはその預言者であると主張したとも、イスマーイールの子ムハンマドをイマームと認めた等、詳細は不明。
 ・ジャーファルの子ムーサー・アルカーズィムをイマームと認め、その死後はムーサーのお隠れと再臨を主張したワーキフ派(ムーサー派)。
 ・ジャーファルの子ムーサーをイマームとして認め、ムーサーの死後はその子アリーに継承されたとするカトウ派。
 ・ジャーファルの生前にイマームは長子イスマーイールに継承されたと主張し、イスマイールの死後もその死を否定し、イスマーイールの再臨を待望する原初の純粋イスマーイール派とも言うべき一派。 
 ・イマーム位はジャーファルの生前にイスマイールには継承さなかったが、ジャーファルの死後はイスマイールの息子ムハンマドがイマームを継承したと主張する一派。イスマイールの通り名にちなみムバーラク派と称される。
 ・イマーム位はジャーファルの生前にイスマイールの継承され、イスマーイールの死後はその子ムハンマドが継承したとする一派で、イスマイール派に連なる一派。

 この内、カトウ派の流れを組むイマーム派と、イスマーイール派が、シーア派内の大きな勢力となっていきます。

 イマーム派は一応公の場で活動していました。政府の監視下に置かれたとは言えムーサーの子孫が隠れ潜むと言うことはありませんでした。
 とは言えイマームが死去するたびに、現状への不満を打破してくれるマフディー到来への性急な期待感から死んだイマームの再臨と革命を希求する派と、息子にイマーム位が継承されたとする派に幾度となく分裂していきます。
 結局後者が生き残り、さらにこの分派中の最も勢力が弱体であったはずの政治的に穏健なグループがやがて主流派に変貌していきます。
 つまり穏健派が、後々の十二イマーム派に繋がることになります。
 このように現在最大の規模を持つ十二イマーム派は本来は主流とは言い難い、分派のそのまた分派であったのです。

 しかし、より過激な言動と革命を意図するイスマーイール派はアッバース朝の弾圧を受け、社会からは完全に隠された存在となっていきました。
 イスマーイールの子、救世主とされた「隠されたる者」ムハンマドは常に体制派に狙われたため流転の日々を送ったと言います。
 伝承の中でムハンマドは、名を変え、職業を偽り、住処をいくつも変えたとされているのです。
 「私の名前をいつ聞かれても、彼らは知らない。私の居場所を聞かれても、彼らは知らない」
 と言う状況であったのです。
 結局イスマーイールの創設した(あるいは関与した)と思われる組織は、ほぼ壊滅の浮目にあったようです。
 彼の子孫達や支持者らは地下に潜伏し、表立った行動を選択することは出来ない状態が続きました。
 ムハンマドを中心としたはずの初期イスマイール派は、体勢側の捜索や逮捕の際、証拠となるような記録を残さないよう文書や聖典の類は不用となれば、すぐ破棄したと考えられています。
 そのため、その教義や活動内容を伺い知ることが出来ません。
 これは後々のニザール派などイスマーイール諸派に共通の研究上の問題点でした。

 限られたファーティマ朝期などの公式記録や、カルマト派の記録、他のスンナ派の歴史家などの証言によれば、ムハンマドの死後その子孫が主導する教派の人々は、少しづつ活動を再開していったようです。
 初期イスマーイール派信徒は、ムハンマド・ブン・イスマーイールは死んでいないと主張し、ビザンツ帝国内に身を潜め、復活のときまで隠匿されていると考えていたようです。
 そしてムハンマドは時来たれば究極の救い主カーイムとして、やがて復活すると言うのが基本的な教義でした。
 この復活劇(キヤーマ)によって、イスラームの法(シャーリア)は廃棄され、終末が訪れ、宇宙の新しい時代が始まると説いたのです。
 細々と続いたイスマーイール派組織を、ムハンマドの子孫らは極秘のうちに指導者として総括し、時代の変化の中で少しずつ力を蓄えていきました。


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