頑固猫の小さな書斎

世界史とお茶を愛する猫の小さな部屋
 
 

 
 
 
五胡十六国・南北朝時代 「孝文帝と文明皇太后」
文明皇太后と孝文帝の母子説

 中国の南北朝時代、北魏の皇帝である孝文帝拓跋宏(467~499年、在位471~499年)は南北朝時代屈指の名君として知られており、後々の隋唐時代に繋がる諸改革の実施者として名高い。
 と同時に以後の魏国衰亡の主犯の様な評価をされる場合もある。彼の実施したその急速な改革により、その死後に社会不安を引き起こし、王朝の瓦解を早めたとする向きもあるのである。
 そのため評価が難しい人物ではあるが、概して政務に勤勉であり、明確なプランに基づいて政策を実施する能力があったと結論できる。
 
 彼は年少で即位したため、その治世初期は義理の祖母に当たる文明太后馮氏(442~490年)の摂政の元にあった。その期間中、彼は皇帝として君臨してはいたが実権はなかった。皇帝が初期に実施した改革は、この太后とその側近により、北魏帝国首脳部の既定路線として実施されたものであろう。
 
 さて文明太后の出身たる馮氏は、長楽信都(現河北省冀県)出身で、五胡十六国時代の北燕王朝の皇室の末裔であった。彼女の祖父馮弘は北燕の末帝である昭成帝(在位430~436年)であり、父馮朗は北燕の実質的滅亡(432年に北魏の侵攻を受け昭成帝は高句麗に亡命した)よりも前に北魏に降伏し、太武帝仕えた人物である。馮一族は五胡十六国時代に興亡した諸燕国の鮮卑慕容氏に代々仕官していた軍人の家柄で鮮卑出身説、胡漢混血説など諸説あるが、最近は鮮卑化した漢族であろうとする説が多数派のようである。
 さて馮朗は降伏後に地方長官に任命されたが、やがて罪を得て処刑された。娘の馮氏は宮廷に送り込まれ、やがて即位前の文成帝の后の一人となり、即位後に皇后に冊立されたのである。
 北魏に滅ぼされた旧王朝の名門の出身として、文明太后は気位が高く、かつ権勢欲が極めて高い人物であった。そして夫たる文成帝の死後の混乱期に政治の実権を握り、権力闘争に狂奔した。
 年少だった献文帝が即位した際、混乱に乗じて独裁体制を築こうとした宰相乙渾の乱を東陽王拓跋丕らと協力して殺害(466年2月)。
 権力を掌握し政権を担ってからは、均田制や三長制と言う、後の隋唐帝国にも引き継がれた重要な諸政策を実施するなど、太后は優れた政治家、指導者の資質を持っていた。
 また後に義子に当たる献文帝を暗殺し、幼少の孝文帝を傀儡として政治的な実権を握って以後の状況から類推して、後世の武則天の様にかなうならば易性革命を成し遂げ、北燕王朝の再興を夢見ていたと考える学者さえいる。

 ところで、この文明太后と義理の孫とされる孝文帝には、実は血の繋がりがあったとする有名な説があり、現在でも一派をなしている。
 つまり呂思弁氏によって唱えられた、「孝文帝は太后の義理の孫どころではなく、文明太后の実の子(私生児)である」とする母子説である。
 講談社が2005年に発刊した中国の歴史シリーズの一冊で、北魏史の第一人者と言える川本芳明先生の一般読者向けの著作「中華の崩壊と拡大」を参考に、その理由を羅列してみると、

(1)孝文帝が生まれた時(皇興元年、467年)、その父たる献文帝が13才と若年すぎること。
(2)太后の死の際に通常、自らの実母と実父にしか行わない「三年の服喪」を、周囲の反対を押し切って実施した事。
(3)魏書の太后の列伝に「后が崩じるまで孝文帝は自分を生む所を知らなかった」と言う解釈不明の記述がある事。
(4)太后の一族馮氏が厚遇されたのに対して、孝文帝の実母である思皇后李氏の一族が孝文帝時代もその後も冷遇され続けたこと。
(5)孝文帝誕生の際に、権勢欲のあれほど強かった文明太后が、一旦政治の表舞台から退いたこと。
(6)史書は一貫して「母子」と二人の関係を表記していること。

などである。
 
しかし、
(1)に関しては確かに幼いとも言える年齢だが、決して不可能ではない。
 
(2)についても太后の旧臣との関係を配慮しての政治役なポーズと言えなくもない。
 また馮太后は旧都平城にある永固陵に埋葬されたが、孝文帝は永固陵近郊に用意させていた寿陵を放棄し、洛陽に造営した長陵に自分が死後に眠ることを選択した。そして「母親」たる馮太后を自身の陵墓近くに遷葬せずに孤立させたままにした。これも実母に対する対応としては、いささかおかしな行動ではないかと言う意見もある。

(3)に関する記述が最も不可解なものであるが、おそらく出生の秘密と言ったものではなく、父親である献文帝毒殺の真実に関する情報を、馮太后の死後に知ったとするのが常識的な解釈である。
 呂氏は母子説の補足として、明確でないその父親を献文帝としている。
 孝文帝の正統性に関しては基本的に誰も疑義を唱えず、中傷もしていない事を、その理由に挙げている。
 つまり文明太后は義理の息子と私通して子をなしたと言う訳である。
 遊牧社会に見られるレヴィレート婚(父の死後に、その妻達を子供たちが分配し保有する制度)を念頭に置いての意見である。
 しかしレヴィレート婚と言うものは歴史家には極めて危険なタームではないかと思う。想像を逞しくさせすぎるのである。
 遊牧民に対する偏見、逆に過度の愛着、そう言った危険に陥る格好の罠なのである。
 皇帝家の事例としては、隋の煬帝が父の妻を寝とった事、モンゴルのダヤン汗の結婚、清の順治帝の母庄妃と順治帝の叔父ドルゴンの関係など多数あるが、客観的に見て誇張が常に含まれており(ドルゴンの場合は、まともな資料では確認できず、おそらく事実ではないと言われる)、歴史学上の判断の参考にする場合は注意が必要なものばかりである。
 レビィレート婚元来の意味合いとしては、あくまで母親やその周囲の女性たちの保護が第一の目的であり、勿論子供を為す場合も多々あるのであるが、中華皇帝一族内部では極めて稀ではないかと思われる。そもそも鮮卑化した漢族であった馮氏がレヴィレート婚を受け入れたかどうか疑問の余地がある。
 また北魏では皇子が皇帝に即位した場合、その実母を処刑する風習があった。孝文帝はそれを廃止しているが、これも川本芳明先生は太后が皇帝の実母であったためではないかと推測している。
 しかしこの風習が献文帝と太后との対立の一因であったこと(生前に息子に譲位したため、献文帝は自分の妻を処刑する事になった訳である)や、旧法を排して漢化政策をとる孝文帝にとっては廃止する事は自然な蛮習であった事を鑑みれば、別段不思議ではない。
 母子説の根拠の一つとして、母親に関する情報が史書ではあいまいである点も指摘されている。
 これも太后自身と孝文帝との関係が緊張したものであったため、その対策、保険として自分が孝文帝の母親であるという噂を敢えて流したと考えたならばどうであろうか。つまり太后の死後に孝文帝は太后の実子で「あった」と言う真実を知ったのではなく、実子では「なかった」と言う真実を知ったと言う解釈も可能である。

 いずれにせよ問題が多いと言わざるを得ない。
 正史上に明言されていないことを、定説にまで発展させるには、十分な根拠がない段階であると言えるだろう。

(4)に関しては、文明太后が献文帝暗殺後に再び表舞台に出た際、献文帝派であった李氏一族の有力者が粛清されていることが起因であると思われる。政治力のあった人物がのきなみ排除されている現状では、孝文帝親政後にも残存した太后派との対立関係上、有力者を欠いた李氏が返り咲く事は容易ではなかったはずである。また孝文帝は父の失敗を反省して、性急な人事の刷新を太后の死後もしばらく控えている。また馮氏自身も北燕滅亡時に、氏族の多くの者が粛清されており、太后の父も罪を得て処刑されているので人材を欠いていたといった状況であった。優遇されているとはいえ権勢を奮ったと言える人物は太后以外見当たらないように思える。

(5)に関しては、引退したのではなく政治的な計算の結果であると考える。つまり政治的な権勢欲を失ったのではなく、逆に権勢を維持するための布石であろうと推測される。
 次期皇帝たる孝文帝の育児教育に専念すると言う事は、皇帝の母親代わりとなることを意味する。さらに皇帝の実母を殺害すると言う習慣をもつ北魏宮廷において、皇帝の義母、乳母の地位は極めて高い。自身が直接に皇帝の養育にかかわると言うこの選択は、皇帝に次ぐ、あるいは皇帝以上の権威を維持する最も確実な方法であった。
 儒教的中華帝国において、皇帝は太后を廃する事は基本的にできないから、歴代皇帝で政治的に干渉をしてくる太后に悩まされた事例は多いのである。

(6)に関しても上記のような皇帝と太后の考えれば別段おかしな表記ではないように思える。

 孝文帝と文明皇太后の母子説は、この時代の史料解釈の矛盾を解決するために考案されたものである。この問題は「正史」たる「魏書」の信頼性の低さに端を発すると言えよう。
 「魏書」は著者である魏収の様々な政治的な思惑によって、曲筆を多分に含ませて成立した代物であるとされる。
 それ故に後代の人々にとっては、様々な会食を生む余地のある史料となってしまった。これからも多くの議論を呼ぶことであろう。
 今のところ母子説は不完全であり、主流となるには程遠いのではないかと思われる。
 ただ歴史物語としては非常に面白いため、今後も忘れ去られずに残っていくことであろうし、どのような立場をとるにせよ孝文帝による改革を語る際に触れないわけにはいかない問題であり続けるであろう。

Copyright 1999-2010 by Gankoneko, All rights reserved.
inserted by FC2 system