頑固猫の小さな書斎

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アルサケス朝通史「ナルヤ・サンハの治世」その2
(2)総督あるいはパルティア王アンドラゴラス

 アルサケス朝の創成期である3世紀半ば頃。
 この時代、つまりセレウコス朝時代のカスピ海南東部パルティア州についての情報は驚くほど少ない。
 北のヒュルカニアとパルティアが行政区分上は同じ総督の管理下に置かれていたようであると言う事くらいであろうか。
 そしてパルティア史を語る時に必ず触れなければならない人物についての情報もまた同様である。

 その人物が今回の主役パルティア総督アンドラゴラスである。

 彼はおそらくセレウコス朝第2代アンティオコス1世が登用し、後に総督にまで上り詰めたと思われるソグド系ペルシア人貴族であった。セレウコス朝の統治における非ギリシャ系の人々の地位は判然としない。少なくとも中央政府の高位高官に登った人物は限られており、やはりマケドニア・ギリシャ人が主流を占めたと思われる。アンドラゴラスは名前からペルシア人と思われるのだが、辺境総督として例外的な措置だった可能性もある。
 おそらくはアンティオコス1世がセレウコス1世存命中に副王として東方を総括する立場にあったとき、何らかの機会に王子に近侍するようになったと考えられるが確証は全くない。
 あるいはソグド貴族の娘でセレウコス1世の正妃であったアパメーの縁者か家臣の子で、セレウコス朝創成時から王家と接触していたのかもしれない。

 彼自身の名前アンドラゴラスはアヴェスタに由来するナルヤ・サンハ(光神の使徒)のギリシャ語訳が転訛したものであり、ギリシャ語とアラム語、ソグド語を話すヘレニズム化したゾロアスター教徒であったと思われる。
 やがてアンティオコス2世時代にはパルティアの総督として属州統治を任せられるほどに出世をしたが、当時の政治状況に関すして該当する時期にパルティアで軍事的な冒険が
なされた形跡は現在の所は認められない。軍人と言うよりも在地土豪とのコネが強い人物として、遊牧諸族との接触も多い危険な地域の安定を優先しての登用だったとみるべきであろうか。
 
 彼はアルサケス朝パルティア帝国の歴史を語る上で大変重要な人物である。
 なぜならアンドラゴラスこそが宗主国に反乱を起こしてパルティア(とヒュルカニアも?)の独立を果たした、言うならば初代パルティア王であり、彼の残した下地を元にアルサケス朝国家が登場したと推測されるからである。
 パルティア独立を主導したアンドラゴラスとはどのような人物であったのであろうか。
 残念ながら文字資料が語る彼の経歴は全く混乱しており、分量も無いも同然で、出自と経歴に関してはこれ以上の推測は不可能である。

 アンドラゴラスはユスティヌスの「地中海世界史」では12巻と41巻に登場する。

 12巻ではギリシャ兵の子孫が軍隊や支配層を担う統治体制について記載した後、「その後(アレクサンドロス大王が)パルティアを打ち負かして、彼らの総督にペルシア人貴族の中から選ばれてアンドラゴラスが任命された」と記述される。続いて彼の子孫がパルティア王家の出自であると明言している。

 この文章、文脈からだけでは歴史的な経緯の解釈は難しい。
 アレクサンドロスのパルティア制圧とアンドラゴラスによる王国の独立との間には80年以上の開きがあるから、彼を総督にしたのはセレウコス朝の王の誰かと言うことになろう。
 現地で争乱があったか侵略されたのか、そうした事件があって一端支配を離れたパルティアが再び制圧された後、新たに任命されたとも解釈できる。セレウコス朝時代のパルティア総督は当初はおそらくギリシャ人であったと思われるが、何らかの事件によってギリシャ人の統治では混乱を収拾できず、在地の人物で王朝に比較的忠実とみられたアンドラゴラスが任命されたと言うことであろうか。
 あるいはアンドラゴラスという人物がアレクサンドロス時代かセレウコス朝初期に存在し、その子孫が代々勢力を持ち続け実質的なパルティア王として君臨しており、同名の子孫の時代に名実共にパルティア総督、国王となったと言いたかったのかもしれない。
 勿論、単なる誤認か誤挿入という可能性も高い。
 ちなみにアレクサンドロスが当初パルティア総督に任命したのはプラタペルネスである。

 一方41巻ではユスティヌスはアレクサンドロスの征服後にパルティアの総督として外国の同盟者スタガノルが任命されたとしている。スタガノルはスタサノールの誤記であると思われる。彼はギリシャ人ではあるがマケドニア人ではないので外国の同盟者ではある。ただしペルシア人ではない。その後は(カルディアの)エウメネス、アンティゴノス、セレウコス・ニカトール、アンティオコスとその後継者たちの所有に帰したとある。
 41巻には続けてアンドラゴラスの反乱のより詳細な記述がある。
 その部分を抜粋してみると。
『…ようやく第一次ポエニ戦争で、アンティオコスの曾孫のセレウコスから、L・マンリウス・ヴルソとM・アティリウス・レグルスとがコンスルの時に離叛した。この離叛で彼らが罰せられないままでいたのは、二人の兄弟王、セレウコスとアンティオコスの不和のお蔭で、二人はお互いに自分の方に王権を奪い取ろうとして、離叛者を追跡することを放棄したからである。同じ頃、バクトリアの1000の都市の総督テオドトスも離叛し、自分を王と呼ぶように命じ、この例に従って、全オリエントの諸民族がマケドニアから離叛した。その頃、アルサケスという、出自は不詳であるが勇気では定評のある男がいた。この男は強盗と略奪とで生活することに慣れていたが、セレウコスがアシアでガリア人に破れたという噂を聞き、王に対する恐怖から解放され、盗賊の手勢を率いてパルティアに侵入し、彼らの総督アンドラゴラスを襲った。そして彼を取り除いた後、この種族の主権を奪った』

 12巻より遙かに具体的で様々な情報を含んでいる。しかしながら、このユスティヌスの記述は逆に年代特定を難しくしている。
 まずアンドラゴラスが独立したのは、アンティオコス1世ソテル(在位紀元前291年〜前261年)の曾孫セレウコス2世カリニコス(在位紀元前246年〜225年)の時代とローマとカルタゴが争った第1次ポエニ戦争(紀元前264年〜241年)の行われていた年代の重なる年であるとユスティヌス(かトログス)は書いている。
 つまり紀元前246〜241年である。
 ところが続いて、それはローマのコンスルがブルソとレグリスの時の事であると続けている。これに該当する年代は紀元前256年と推測されている。
 なおこの記述のコンスルの名はローマで前256年に実際に就任した人物の名と完全に一致しない(通説はルキウス・マンリウス・ブルソ・ロングスとクィントゥス・カエディキウス)。
 
 またユスティヌスはバクトリア王テオドトス(正しくはディオドトス1世)が離反した年代と同じ頃だとも書いているのである。しかもはっきりと王と呼ぶように命じたとある事は重要であろう。
 
 バクトリア独立の年代も実は確たる決め手のない状況である。
 独立の年代はディオドトス1世が独自のコインを発行した時と考えるのが自然であるのだが、ディオドトス1世はどうも表立っての独立を宣言したとか、武力蜂起を起こした訳ではなかったため実にはっきりしないのである。考古学的にも前225年頃までバクトリア主要都市内部で略奪行為などの戦乱に巻き込まれた形跡がない。バクトリア国内は平穏であったのである。
 ただ貨幣資料研究の立場からバクトリア王国独立(つまり独自貨幣鋳造)は紀元前246年以前とされているのである。
 発見されたディオドトス1世の貨幣はいくつかバリエーションがある事が知られている。また息子と思われるディオドトス2世の発行した貨幣との区別が難しく、分類について諸説あるのが現状である。
 特に問題をややこしくしているのは自身の肖像を刻んだ最初期のコインの銘文に「王、アンティオコス」の銘文が打たれているものが存在している事である。
 このアンティオコスはセレウコス朝のアンティオコス2世テオス(在位紀元前261年〜246年)であると推測され、この事からアンティオコス2世王が生きている時代に独自のコインを発行し始め、実質的に独立を達成したと考えられているのである。
 ディオドトス1世がアンティオコス王の名を銘文に入れた理由は定かではない。急造であったために裏面のみアンティオコス王の刻印を再利用したのか、あるいはセレウコス朝の介入を遅らせるためセレウコス朝の宗主権を認めているポーズを示すためであったのか。勿論、このような貨幣発行権のみを得ている段階では未だ独立したとは言えないとの意見もある。後のアルサケス朝時代の藩属国と同じで、ディオドトス1世は王号を貨幣に示していないからである(発見されていないだけかもしれない)。

 このディオドトス1世独立とパルティア独立が同時期と考えるとユスティヌスの記述の内、「アンティオコスの曾孫のセレウコスから」と言う文章は原文自体の誤りか、要約か筆写の際に誤って混入したと解釈する必要が生じてくる。
 つまり紀元前256年がパルティア王国成立の年と推定できる。

 そして彼が殺害されたと思しき年代もトログスの記述からある程度推定できる。
 遊牧民パルニ族の族長アルサケスがパルティアに侵入しアンドラゴラスを殺害したとされる年代が『セレウコスがアシアでガリア人に破れたという噂を聞き、王に対する恐怖から解放され、盗賊の手勢を率いてパルティアに侵入し』たという記述から、これに該当する事件が前238年頃に起きているため、それ以後の事であると推測できるからである。
 そうするとアンドラゴラスは前256年から前238年と実に18年間王位にあったことになる。
 長期政権と言って良いであろう。
 しかし、ここで問題が生じる。
 在位期間が長すぎるのである。
 考古学的な資料…つまり彼が発行した貨幣が存在する事から、アンドラゴラスと言う人物が実在しパルティア王となったことは間違いない。
 ただし彼の活動していた期間と考古学的出土状況が一致しないのだ。
 それはアンドラゴラスの発行した貨幣の発見数が余りに少なく、18年間と言う長期間王座にあったとはとうてい思えないと言う事である。
 アンドラゴラスの貨幣はデザインの観点からは表側の肖像が王権の象徴である鉢巻(ディアデム)をしている事(あるいは若い都市神を刻んだもの)を、裏面も疾駆する馬車を刻んでいる事などからヘレニズムの伝統を受け継いだ意匠であると断定できる。
 この時代は貨幣発行は経済に加えて政治宣伝と密着していた。
 この事から彼がギリシャ化したペルシア人かペルシア化したギリシャ人であったかはともかく、政治システムとしてセレウコス朝の伝統を引き継いでいる、つまり元来は王朝の任命した総督であった可能性はやはり高い。しかしディアデムを巻いた意匠は王位を宣言した事と同意であり、貨幣学上王位を宣言したか疑問を持たれているディオドトス1世よりも独立王国と言う自覚は強かったと思われる。

 現在の学説ではトログスが記述している年代に関する部分はバクトリアの独立の年代に関して説明するものであり、ディオドトスが王位宣言をしたのかはともかく前256年頃にバクトリア王国は政治的な自立を達成したと解釈する。
 その後パルティアも独立の道を選択した。いくつかの文献史料から類推してもアンドラゴラスによる在位期間はバクトリア王国の自立以後からアルサケスによる殺害まで、前256年から前238年の間のそれほど長くない期間であったとしか分からない。
 現代の多くの学者は独立(貨幣発行に踏み切った年代と言い換えることもできる)を紀元前240年代の前半頃であったと考えているようだ。

 こうした東方の離反に対してセレウコス朝国王セレウコス2世は、第3次シリア戦争と弟の反乱に手を焼き為す術がなかった。と言うよりも独立したと考えていなかったかもしれない。彼らは未だセレウコス朝の総督なのだから。
 セレウコス朝が危機感を持ったとしたらそれはペルシア系の総督であったアンドラゴラスの独立よりも、全くの外来者であるアルサケス1世の軍事勢力に対してであろう。

 さてパルティアの隣国グレコ・バクトリア王国の独立の時期についても二つの説が対立している。

 まず一つ目はグレコ・バクトリアの独立をセレウコス朝西方の政治的な動揺(ペルガモン王国とプトレマイオス朝との抗争)と王位継承争いに起因するという説である。
 これは王朝の独立を前256年とする。
 野心的な総督ディオドトス1世はセレウコス朝の弱体化を見て独立を画策したが、セレウコス朝の介入に気を配った。そのため独自貨幣を発行しつつ、そこにアンティオコスの名も刻む事で宗主権を認めている事をアピールした。やがてセレウコス朝が全く持って介入の気配がない事から共同統治者であった息子ディオドトス2世は自身の肖像を刻んだ貨幣に王号を加え始めた。ディオドトス1世の没年は根拠のある定説はないが、おおよそ前240年から230年頃までに死亡したとされている。1世の死後、ディオドトス2世は正式に王位を宣言しバクトリア王国が成立した…と言うストーリーである。

 もう一方は独立の原因をセレウコス朝の内乱とは関係のない、遊牧民パルニ族の侵攻に対抗する目的であったとする説である。
 東方防衛の要として優遇的な扱いを受け、また経済的な援助を受けており文化的生活の維持に関してもセレウコス朝との交易に依存していたギリシャ系住民が真っ向から反乱する必要性はなく、ディドドトス1世の個人的野心のみでは成功する可能性も低かったであろう。
 そのためディオドトス1世が貨幣を鋳造したのはセレウコス朝の混乱につけ込んだ自立心や野心の為ではなく、遊牧民に対する軍資金を早急に準備する必要があったからであったと考えるべきであるとする。
 また貨幣の意匠についても彼の軍事指揮官としての性格が垣間見える。貨幣の裏側には雷を投擲するゼウス神が描かれているのだが、これはディオドトス1世が軍事指揮権の正統性を領地内の商人、軍人に知らしめるためのプロパガンダであったと推測できるからである。
 マケドニアでは古くから武力で得た領地は血統に関係なく正当であり、勝者のものであるという観念があった。この「槍で勝ち取った領土(ドリクテートス・コーラ)」を得たものは貨幣に武装した神を刻むことが多かった。ディオドトス1世の貨幣に描かれたゼウス像は雷を投げる戦闘体勢を表現した意匠である。つまり権力の座を「槍で勝ち取った」事を宣言しているのである。
 おそらく遊牧民に対する何らかの軍事活動が繰り返され、ディオドトスは防衛に奔走したのであろう。
 この説の支持者は前255年頃から発行された貨幣は、パルニ族対策の為の臨時のものであったとみるのである。そして前240年半ば頃までにパルニ族に対する何らか勝利(あるいは敵方の撤退)が得られたことでディオドトス1世の権威が増し、貨幣にアンティオコス銘を残したものの軍事勝利を寓意する花冠のモノグラムをも刻むようになったとする。こうして実質的に「英雄」となったディオドトス1世は王と見做されるようになり、息子が地位を引き継いだ際に名実ともに国王を宣言した。しかし王国内部の利益分配の対立から内乱が発生し、ディオドトス2世は敗死した。ただし後継者もディオドトス1世の権威は認めており、(婚姻などで)彼の血統を引き継いでいると言う事が、王位継承の正統性を補完する重要な要素となったとする。
 
 つまりはセレウコス中央の政治動向と密接にリンクしていたか、逆にそうではなかったかと言う事である。

 バクトリアは1000の都市の国と言われるように多数の都市が作られ維持出来るほどの豊かな土地であった。実際、ホラサーン以東の地は経済的に十分に自立でき、また独自の文化を持っていた。そう言った意味で強大な軍事力を持つ集団が継続して存在するような状況が現出した時点で、自立傾向を見せるのは自然な事であったように思える。

 パルティアの独立もバクトリアとほぼ同じであったと考えられる。パルニ族と言う強敵の出現が直接の契機であったことは疑いない。軍事的必要性が、迅速な意思決定と財政運用が可能な独立王国の道を模索させたのである。
 しかしバクトリア王国と違ってアンドラゴラスは最終的に敗北した。バクトリアの制圧に失敗したパルニ族は、アルサケス1世と言う新たなリーダーの元で体制を建て直し、アンドラゴラスを戦場で殺害しパルティア征服を成し遂げた…のかも知れない。
 真実は新たな考古学的発見がもたらされるまで闇の中である。

 アンドラゴラスについて、残念ながら今のところ我々は語るべき史料を持っていないのである。


                                                    
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