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涼州安氏と李将軍の死

 李抱真(733年~794年)字は太玄は、中国唐代の名将として知られている。
 一族の後を継いで懐澤潞観察留後の官職に就き、以後は常に王朝の最前線で活躍した軍将である。
 懐澤潞観察留後は、その名のごとく潞州(現山西省長治県)に鎮し、その地方全体の内治を司り、なおかつ節度使として兵馬の権も有する顕職であった。
 彼は政治面よりも、主に軍事で活躍し、諸反乱の鎮圧や対吐藩(チベット)戦役で軍功があり、同中書門下平章事(つまり宰相)、義陽郡王にまで出世した。
 唐書で「李抱真沉斷有計謀, 禮賢下士, 隻要聽說有才能的人」と称賛される名将であった。
 しかし、その晩年に不名誉な形で死を迎えた事でも知られている。
 彼は、どうしても死にたくないと願うようになったのである。

 さて李抱真の本来の姓は、李ではなく安であった。李姓は、安史の乱の際、反乱者と同じ姓ではまずかろうと、一族とともに皇帝によって与えられたものであった。元々祖先は涼州の出身で、彼も黄河の西、河西の出自である。
 彼は名族として名高い、涼州安氏の一族であった。
 涼州安氏はソグド人の有力者として南北朝から唐代にかけて軍事、経済、政治の各分野で活躍した事で有名である。
 その祖は439年(太延五年)の北涼滅亡時に、北魏政権によって涼州から平城に強制移住させられた数万戸のソグド人コミュニティーの住人であったと思われる。彼らは452年頃、ソグド本国の王が北魏と交渉して奴隷身分から解放され、西方に戻る事が出来た。六世紀前半、安氏の長でブハラ出身の安難陀が、王朝より復興した涼州のソグド人コミュニティーを統治する薩宝(サルパトウ)の職を与えられた。以後、安氏は涼州で地位を固め、ソグド人の中でも頭一つ抜きんでた存在となった。ただ安氏は遠距離交易を取り仕切って財を蓄える事に熱心で、中央政界で地位を得ることには余り積極的ではなかった。王朝滅亡によって一族が離散する危機を経験したソグド人ならではの慎重さであったと言えるだろう。ただ唐王朝の成立時に、安難陀の曾孫の安興貴が唐の河西奪取に功績があり、王朝に深く関与する事も度々であった。安氏は中央アジアに伝統的な家産的組織の元にソグド人歩兵部隊を編成して、主に軍事面で唐帝国に協力した模様である。例えば安興貴の子、安元寿は16歳の時に太宗李世民に仕えて、その政権奪取(玄武門の変)の際に活躍し、また対突厥戦役では、頡利可汗の侵入戦で前線で戦い、叔父と共に李靖の漠北遠征にも従軍したらしい。しかし、その後は政界を引退して商業活動に従事していたと言われている。
 安史の乱が勃発すると、安氏もまた王朝側の有力者として再び登場する事になる。安興貴の末裔である安重璋は広大な牧地を所有する富豪であった。おそらく突厥、ウイグルとの絹馬貿易に関係していたのであろう。安祿山の蜂起によって霊州に逃れてきた肅宗・代宗に仕え、契丹族の李光弼の部将として王朝再興に尽力した。李の姓を与えられたのは彼の時代であり、史書では李抱玉と記されている。生粋の武将で大乱の時代を戦塵の中で生きた人物である。澤潞節度使、鳳翔節度使、山南西道節度使を歴任し、陳鄭潁亳節度使となった。
 彼の死後に、地位とその軍隊を継いだのが抱玉の従父弟である李抱真である。ちなみに李抱真の安姓時代の名前は伝わっていない。

 ソグド人の軍事的側面を体現する人物である李抱真が、不老不死に憧憬を持ち、実際に実践してしまった理由は定かではない。彼は政治的外交的なセンスも持ち合わせており、人事面での進言も的確で、時に謀略を用いて敵軍を欺くなど、猪突猛進の将軍ではなかった。また商人でもあり利得に敏感な人物ではあったが、強欲な性格でもなかった。義に厚い人物であったからこそ王朝のための戦いに奮闘したのである。
 しかし知的水準が高いからこそ、不老不死の可能性を信じてしまったのかもしれない。彼はソグド人であったから、本来の宗教はゾロアスター教、マニ教、あるいは仏教であったと思われる。しかし字(つまりあだ名)が太玄であることからも解るように、彼は当時の文化的気風に飲み込まれ、不老不死の妙薬を生み出すと言う錬丹術にハマってしまったのである。
 自称仙人が作り出す金丹は、水銀の化合物(アマルガム)からなる劇薬である。
 継続的に飲めば必ず寿命を縮める。
 にも拘らず、多くの人が服薬した背景には、所謂屍解仙の思想があったと思われる。つまり一度死んで仙人に生まれ変わると言うものである。
 李抱真を唆したのは、孫季長と言う名のペテン師であった。
 彼は一応は古書に従って怪しげな丹薬を創る事が出来たが、勿論仙人ではなかったし、その危険も熟知していたようである。
 
 その気になった李抱真は周囲の者に
 「私は始皇帝も漢武帝も手に入れる事が出来なかった丹薬を手に入れる事が出来た。すぐに昇仙するので最早お前達に会う事は出来なくなるだろう」
 等と自慢したり、仙人となった時のため鶴に乗って飛翔する訓練を始めるなど、振る舞いがおかしくなっていった。
 ちなみに訓練とは、道士の服を着て木製の彫刻の大きな鶴を作らせて、その上に乗って遊ぶと言うものであった…。

 794年に李抱真は羽化登仙する決意を遂に固め、大量の(史書には2万丸とある)を一気に服餌した。勿論全て飲み込める訳もなく、しかも急速な重金属中毒症によって昏倒(ショック状態ですな)してしまった。この時は別の道士、牛洞玄が下剤を処方し体外に丹薬を出させた事で死を免れたが、しかし李抱真は諦めなかった。
 孫季長も悪びれもせず、李抱真が体調を回復した頃に
 「なぜ下剤など服用したのか、まもなく死しても登仙できたものを」
 と言い、李抱真にさらに丹薬を買わせたのであった。
 
 前回で懲りたのか、少なめに3000丸を服用するに止めた李抱真であったが、またも意識不明の状態に陥り、今回は再び目覚める事はなかった。享年62歳。時の徳宗皇帝は三日間公務を停止して、その死を悼んだと言う。
 多くの人々に恐れられ、尊崇された軍人宰相の、何とも滑稽な死に様であった。

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